湘南モノレール駅名のルーツを探る旅。
今回は「湘南江の島駅」の「江の島」のルーツに迫ってみたい。
湘南モノレールの片方の終点である湘南江の島駅は、江ノ島電鉄の江ノ島駅にも近く、境川を挟んで小田急江ノ島線の片瀬江ノ島駅もある。
「エノシマ」の名がつく駅は、江の島周辺に3つもあることになる。
みんなが知っている「江の島」
「エノシマ」という地名は、現在どのように使われているのか。
まず、エノシマは藤沢市の住所として使われている。江の島の島全域が、藤沢市江の島一丁目と二丁目という住所となっている。
なお、湘南江の島駅の所在地は藤沢市片瀬であり、江の島ではない。
その他、江ノ島電鉄、新江ノ島水族館などの企業名や施設名のほか、さまざまな店舗や商品名などに使われている。
全国的には広く知られている地名のひとつであり、湘南モノレールの駅名のなかでも、鎌倉に匹敵する知名度を持つといってよいだろう。
なお「エノシマ」の表記は「江ノ島」「江の島」「江島」など一定していない。
表記は、古くは「江島」と書かれることが多く、時代が下るにつれ「江ノ島」となり、戦後に入ってから「江の島」と表記されることが多くなってきたようだ。(※本稿の文中では、その時代の呼び方で適宜書き分けます。固有名詞は表記に従います)
参考までに、江ノ電江ノ島駅の開業が明治35年、小田急片瀬江ノ島駅の開業が昭和4年、湘南江の島駅の開業が昭和46年、そして、江の島一丁目~二丁目の住居表示実施が、昭和41年となっている。
江ノ島
湘南江の島駅の江の島は、もちろん、この江の島が由来で間違いないだろう。
江の島はなぜ「江」なのか
「江の島」は、いつ頃から使われていた地名だろうか。
ひとは、地形的な特徴がある場所にまず名前をつける。きれいに湾曲した砂浜の海岸線が続く中、突然現れる大きな島に名前がなかったわけがない。
おそらく、このあたりにひとが住みはじめたころから、なんらかの呼び名があったはずだ。
「エノシマ」という呼び名については、江の島にある江島神社の沿革を記した『江島縁起』という縁起書に書かれているものが古い。
『江島縁起』によると、島に「江の島明神」が祀られたのは552年ごろということになっており、この縁起書自体は、1047年に天台宗の僧、皇慶が著したといわれている。そのため、平安時代中頃には確実に「江島(エノシマ)」という地名はあったはずだ。
ここで、エノシマの「エ」について考えてみる。
日本初の近代的な国語辞典と言われる『言海』で「エ(江)」をひいてみと......。
え(名)〔江〕〔海ノ支(エ)ノ義カ〕湖海等ノ陸ニ入リコミタル處。イリエ。
とある。
「江」という漢字には「大きな川」という意味が強いが、日本語の「エ」は、水が陸地に深く入り込んだ場所、という意味もある。漢字の持つ意味と、言葉の持つ意味のニュアンスが微妙にちがう。
江の島周辺には、境川という川はあるものの、江というほどの大河ではない。周辺はなめらかな砂浜が続き、海が陸地に深く入り込んでいる様子もない。
そんなところにある島に、なぜわざわざ「江」という言葉を使ったのだろうか?
たとえば、沖にあるから「沖島」でもよかったはずだし、弁天様が祀られている島ならば「弁天島」でもよかったはずだ。
わざわざ「江」という地形を表す言葉を使っているのはなぜなのか。
それは、島に名前が名付けられた当時、島の周辺に「江」となっている地形があったのではないか。
つまり、島の対岸側に、今と違って入り江のような地形が存在し、その先にあった島......という意味で「江島(エノシマ)」という地名が誕生したのではないか。
このシリーズの「深沢編」(http://www.shonan-monorail.co.jp/sora_de_bra-n/2020/01/post-275.html)でも少し触れたが、そのむかし、このあたりにはかなり大きな湖があった。
『江島縁起』にはこうある。
『いにしへ武蔵相模の境に、鎌倉海月の間に長湖あり。 その廻れること四十余里、これを深沢といふ』
海月とは、現在の横浜・久良岐、上大岡あたりのことだ。
実際、江の島の対岸にはかなり大きな湖、湿地帯が広がっていたようだ。現在の地図で海抜15メートル程度の場所までを水色にぬると、境川の河口から柏尾川に沿って、大船駅を超えて戸塚の手前までが、まさに「入り江」の様な形で真っ青になる。じつにこのあたりが、深沢と呼ばれる長湖だった。
興味深いのは、上の地形図と、鎌倉市史にある、縄文時代の海岸線を見比べると、まさにほぼ重なることだ。
縄文土器時代の海岸線想定図『鎌倉市史』より
とくに注目したいのは、江の島のまさに正面に、現在の西鎌倉駅あたりまで入り込んでいる津入江がある。そして、片瀬山を挟んで、大船入江、藤沢入江、大庭入江など、大きな入江が複数存在している。これらの入江が、まさに深沢(長湖)だったのではないか。
その「江」である深沢の先にある島で、江の島......と考えるのは、そんなにおかしな考え方でもないはずだ。
五頭竜伝説と江の島
この入江(深沢)と江の島に関しては、次のような説話が『江島縁起』に残っている。ちょっと長くなるが、該当部分を要約しつつ紹介する。
深沢(長湖)には、その昔、頭が五つある猛悪な龍、五頭竜が住んでおり、たびたび住民を苦しめた。
この五頭竜は、神武天皇のころから700年、風伯(風神)・鬼魅(化け物)・山神(山の神)等をともなって、山を崩し、洪水を起こし、疫病を流行らせ、災害を起こした。
景行天皇の御宇(西暦500年頃)には、東国(関東地方か?)に火雨(火山の噴火か?)を降らせるなどし、悪行の限りを尽くした。
五頭竜は、津村(現在の西鎌倉駅周辺)の水門にあらわれて、人の子供を食った。そこを初噉(はつくい)沢という。(『西鎌倉編』で触れた初沢の語源のひとつか?)
五頭龍の悪行はなおおさまらず、村の子供を食うので、ひとびとは、他所に移り住んだ。そこを「子死越(こしごえ)」(現在の腰越か)という。
五頭竜の悪行はおさまらなかったため、人々は相談し、子供を生け贄に出すことになり、ひとびとは嘆き悲しんだ。
そんななか、欽明天皇13年(552年)4月12日、突如として大地が振動し、左右に子供を従えた天女が現れた。
大地の振動は続き、11日後の4月23日、波の間から新たな島が出現しここに天女が舞い降りた。(島は当初「鵜来島(うきしま)」と呼ばれたようだが、これが江の島である)
五頭竜は、この美しい天女を妻に迎えようと願い、海を渡ってきたが、天女は、人の命を簡単に奪う汝とは相容れない。とこれを退けた。
すると五頭竜は、殺生をやめ、凶作をやめるなど改心し、再び天女に願いを伝えた、すると天女はそれを受け入れ、竜は南に向かう山となった。これが竜口山(龍ノ口)である。
五頭竜は江の島の対岸に「子死方明神」として龍ノ口に祀られ、天女は、江の島に弁財天として「江島明神」として祀られることとなった。
昭和53年まで、五頭竜が祀られていた「龍口神社」現在は、西鎌倉に遷座している。
龍ノ口の意味
以上が、ヤマタノオロチ伝説にも似た『江島縁起』の五頭竜伝説だ。
古くから竜が水の神様とされているのは、ひろく知られている。この五頭竜は、深沢と呼ばれた湖、そのもののことではないだろうか?
さらに、単頭ではなく、五頭竜となったのは、深沢に流れ込んだであろう、川のことではないかと推測する。
古墳時代から飛鳥時代の深沢に、どのような川が流れ込んだのかは判然としないが、境川や柏尾川など、深沢に流れ込んだであろう川を竜の頭として五頭竜......という考え方はどうだろう。
深沢を竜と考えれば、その深沢が海に注ぎ込む地点を、竜の口に見立てて「龍ノ口」と呼んだのも不自然ではない。
そしてその先、つまり入り江の先にある島が、江島(エノシマ)。というわけだ。
江の島の語源について、実は深沢という地名が、江の島の対として存在し、大きく関わっているのではないか......というのが私の考えた説である。
参考URL
龍鱗「江島縁起・五頭竜と弁才天」/
http://www.hunterslog.net/dragonology/DS2/14205n.html
江島神社/
http://enoshimajinja.or.jp/manga01/