湘南モノレール・湘南深沢駅
湘南モノレールの駅名に使われている地名のルーツをたどる旅。今回は、湘南町屋、湘南深沢のふたつの駅について考えてみたい。
湘南町屋
町屋も深沢も、東京に同じ地名が存在している。そのためか「湘南」の地名を冠している。湘南にかんしてはいずれ、別の回でふれることとして、今回は町屋、深沢についてみていく。
まずは町屋である。町屋とはいったいどんなところだろうか。
湘南町屋の駅は、小高い丘の上に駅がある。その丘から柏尾川の方に向かって下り坂を降りていくと、右手に三菱電機の大きな工場がある。
湘南町屋駅そばの坂を下る
三菱電機の工場
白い色がまぶしい工場だが、今日は休日の昼間なので、ひっそりとしている。
湘南モノレールは、もともと三菱重工業、三菱商事、三菱電機などが出資して作ったモノレールであることを思い出す。いまでも、三菱電機の工場に出勤する人たちは、湘南モノレールを使うのだろう。
湘南町屋駅から、細長い丘が柏尾川の方に向かって伸びる
ここで、地形図を見てみる。工場の南側、湘南町屋駅のある丘から、柏尾川の方に向かって丘が細長く伸びており、その先に上町屋の集落があることがわかる。
実際に、このあたりを歩くと、工場の周辺には、アパートや団地といった比較的新し目の建物が目立つが、上町屋の集落には、瓦屋根のりっぱな「屋敷」といった風の建物が建っている。
瓦屋根のりっぱな屋敷が多い
丘のいちばん先には、泉光院という真言宗大覚寺派の寺院がある。
泉光院
上記の地形図をみてもその存在がよくわかるが、この寺の後背地には、小山のようになっている墓地がある。上まで登ると、周辺がよく見渡せる。
湘南モノレールの湘南町屋駅方面をみる
手前の瓦屋根の古い建物と、新し目の建物のコントラストがおもしろい。
上町屋の町は、小高い丘の周辺部に、古くからの集落が発達しており、平地となっている部分に、工場など巨大な施設と比較的新しい家屋が立ち並んでいることがわかった。
古くから栄えた集落、町屋
町屋の歴史をひもといてみたい。『鎌倉の地名由来辞典』(東京堂出版)をもとに「町屋」という地名の変遷をまとめてみる。
●正保元年(1644年)『正保国絵図』に「町屋村」。
●元禄十年(1699年)『元禄内国改定図』に「上町屋村」。
●明治二十二年(1885年)町村制施行により、梶原、寺分、山崎、手広、笛田、常盤と上町屋の七ヶ村が合併し、深沢村が誕生。その大字となる。
●昭和二十三年(1948年)鎌倉市と深沢村が合併のさい、深沢村から離脱し「上町屋」となって鎌倉市の大字となる。
この経緯をみると、江戸時代に「町屋」という地名が登場するようだ。
天保国絵図を見てみると「上町谷村」と記されている。屋が谷となっているが、これは表記ゆれのひとつだろう。
『天保国絵図』江戸時代1838年の地図
「町谷村」との表記は、泉光院にあった石碑にもそのように書いてあった。
「上町谷」表記の石碑
『鎌倉の地名由来辞典』(東京堂出版)によると「町は市場、商工業関係者の居住地、屋は集落を意味するか」「柏尾川の水運と、鎌倉道の交わる部分に町屋が軒を連ねていたことによる」とある。
地名の語源と由来は、おそらくこれで間違いはないだろう。
ここで「町」という漢字について考えてみたい。漢和辞典で「町」を引くと、まず最初に「田んぼのあぜ道」の意味であると出てくる。市街の意味は、その次ぐらいである。
町を市街の意味で使うのは日本だけである。中国語では、市街の意味で「町」は使わない。例外的に、日本が植民地支配していた台湾の台北には西門町という日本風の地名がかろうじて残っているが、それぐらいである。
つまり「町」が地名自体につく場合は、田んぼのあぜ道が見えるような場所。という意味がある可能性も考慮すべきである。
ここで、昔の上町屋の地図をみてみたい。
地名通りの風景
上町屋の集落の回りを見てほしい。田んぼと何も書かれていないだだっ広い土地が広がっている。この何も書かれていない場所はおそらく湿地だったのではないか。前回、大船の回でも少し触れたが、その昔、このあたりは本当になにもない湿地が広がっていたのだ。
田んぼのあぜ道のなかにある家屋。つまり町屋である。町屋は本当にそのとおり見たままの地名ではないだろうか。
荒川区の町屋の昔の様子を見てみると、まさにここも田んぼの中に集落があることがわかる。
田んぼの中にある町屋
さて、町屋についてはわかったが「上」とはなんなのか。周辺に下町屋はない。『鎌倉の地名由来辞典』(東京堂出版)には「"上"を冠した理由は不詳」とある。
歴史的な経緯としては、もともと「町屋」と呼ばれていたところに、あとから「上町屋」となったわけなので、昔、下町屋と上町屋があり、上町屋だけ残った。というわけでもない。
位置関係を指し示す言葉として上や下を使う場合、基準となる場所があり、そこから見て、近い方を上、遠い方を下ということが多い。下総、上総や、下野、上野というのは、都(京都)から見て近いほうが上、遠いほうが下、ということになる。
上町屋の場合、鎌倉、もしくは江戸から見て近い方に上......とつけた可能性があるが、下にあたる地名が無いため、わからない。
何れにせよ上町屋に「上がついた理由」は、やはり不詳とせざるをえない。
湘南深沢
さて、もう一つの駅名、深沢について考察してみたい。
現在、湘南深沢駅の周辺に、深沢という地名はない。学校名などには残っているものの、寺分や梶原、常盤といった地名に置き換わっている。
先ほど、上町屋成立の経緯で少し出てきたが、深沢というのは、梶原、寺分、山崎、手広、笛田、常盤、上町屋の七ヶ村を含む広域の地名である。
「深沢」という住所はない
この深沢が村の地名として文献に登場するのは、鎌倉時代である。『吾妻鏡』に養和元年(1181年)9月16日「不被入鎌倉中、直経深沢、可向腰越」とあり、これが初出といわれている。
これは、「主君である足利俊綱を裏切り、その首を持参してきたので、その恩賞として源頼朝の御家人に加えてほしい」と申し出てきた桐生六郎という武将に対し、頼朝は鎌倉に入ることを許さず「深沢を経由して、腰越に向かえ」と指示しているくだりである。これから、この頃は深沢、腰越あたりは、鎌倉の外側だと認識されていたことが分かる。
ちなみに頼朝は「主君を裏切るようなやつは、信用できない」として、梶原景時に命じ、桐生六郎の首をはね、俊綱共々さらし首にしてしまっている。
湘南深沢駅周辺の「梶原」は梶原景時などを輩出した梶原一族の本拠地である
「深沢」という地名は、この頃より、一貫して広域の地域名として使われた地名だ。戦国期には「深沢郷」、または「深沢里」「深沢村」などと呼ばれ、明治時代に深沢村が成立するものの、鎌倉市との合併で、住所の地名としては消えた。
この深沢、文献への初出が鎌倉時代ではあるものの、おそらくそれ以前より使われていた地名であることは確かだ。
深沢の地名の由来は「奥行きの深い、湿地帯にちなむもの」(『鎌倉の地名由来辞典』東京堂出版)と考えて差し支えないだろう。
『江島縁起』という江の島にある江島神社の沿革を記した縁起書がある。これによると『いにしへ武蔵相模の境に、鎌倉海月の間に長湖あり。 その廻れること四十余里、これを深沢といふ』とある。
鎌倉から海月(横浜・久良岐、上大岡あたり)まで長い湖があり、その周辺を深沢と呼んだ。ということである。
江島縁起が書かれたのは永承二年(1047年)平安時代である。そのころで「いにしへ」というわけなので、深沢あたりが湖であったのは、さらに昔の話だろう。
この湖に関しては五頭龍伝説など、興味深い話もあるのだが、これはいずれまた別の回で触れることにしたい。