この連載も、いよいよラストスパートである。前回訪れた永福寺跡から、次は金沢街道(県道204号)沿いにある明王院という寺院へ向かう。
以前は、永福寺跡の先にある瑞泉寺の門前からハイキングコースに入り、明王院のすぐ近くに出るルートがあった。しかし、今回、あらためてその山越えルートを確認したところ、以前はあった道標などが撤去されていた。しかも、道がやや整備されていない箇所もあったため、大回りになるが、いったん鎌倉宮のほうへ少し戻って、金沢街道に出るルートを推奨する。
ただし、この山越えルートの途中には、大江広元の墓と伝わる石塔があることは、お伝えしておかなければならない。この石塔がなぜ広元の墓と言われているのか分からないが、仮にそうだとすれば、第10回で紹介した墓と合わせ、鎌倉市内に広元の墓が2つあることになる。
山の中にある大江広元の墓と伝わる石塔
さて、金沢街道に出たら、東へと歩を進める。なぜ、この道を金沢街道と呼ぶのかといえば、鎌倉時代に、鎌倉の外港である六浦の港(横浜市金沢区六浦)との間を結ぶ、重要な物資輸送ルートだったからである。
この道を行き交った物資の中で、鎌倉の都市生活を支える上でとくに重要だったのが、金沢の平潟湾沿岸で製塩された塩であった。そのため、この道は「塩の道」とも呼ばれたという。シルクロードならぬソルトロードである。
明王院までは、この金沢街道を1kmほど歩くことになる。バスであれば「杉本観音」バス停から乗車し、3停留所先の「泉水橋」バス停で降車する。
明王院にやってきた理由は、この付近に、第4回で紹介した梶原景時の屋敷があったとされるからである。ただし、具体的にここだというような石碑が立っているわけではなく、明王院手前の路地を入った先に、地元で「梶原の井戸」と呼ばれている井戸跡があるくらいだから、雰囲気だけ感じて欲しい。
再び金沢街道に戻り、さらに金沢方面へ少し進んだところに、「明石橋」という交差点がある。ここからコンビニと川の間の細い道(旧道)に入っていくと、「大江広元邸址」を示す案内碑がある。
「大江広元邸址」を示す石碑
広元については、第10回で説明したが、あらためて案内碑に記された内容を現代文に直しつつ補足すると、以下のようになる。
大江氏は学匠(学者)の家系で、広元は、源義家(頼朝の先祖)に兵法を教えた大江匡房(まさふさ)の曾孫である。頼朝に招かれて都から鎌倉に来て、頼朝の側に仕え、幕府の政治制度が定まったのは広元の功績によるところが大きい。相模国の毛利庄を領した広元の子孫が毛利氏を称した。不思議な因縁で、この幕府創業の元勲の700年後の子孫が(明治維新において)王政復古を進めるのである。この地は毛利氏の祖先である大膳大夫広元の屋敷址である。
【地図】
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