次の目的地は覚園寺(かくおんじ)という寺院である。前回訪れた北条義時法華堂跡から道標に従って、まずは鎌倉宮を目指して歩いていこう。
鎌倉宮の門前に出たら、今度は、左手のバスロータリー奥へと進む。谷戸の奥へ奥へと進む道である。谷戸とは、前述した通り、山の尾根と尾根の間に挟まれた谷間のような地形のことで、鎌倉の寺院は、谷戸が境内になっているところが多い。
目指す覚園寺は、「薬師堂ヶ谷」という谷戸にある。覚園寺は、元々この地にあった大倉薬師堂を前身として、元寇(蒙古襲来)後の1296年に、元寇が再来しないようにとの願いを込めて建立された寺院である。
覚園寺門前
そして、元々の大倉薬師堂を建立したのが、『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時であるのが、覚園寺を訪れる理由である。
現在は覚園寺本堂となっている薬師堂と、本尊の薬師如来を守る十二神将には、以下のような伝説がある。
あるとき、義時の夢枕に薬師如来に従う十二神将のうちの戌(いぬ)神将が現われ、「身に危険が及ぶから、来年の鶴岡八幡宮の参拝には参加してはならぬ」と告げた。これを日頃の信心のおかげとありがたく思った義時が建立したのが、大倉薬師堂である。
翌年の将軍・実朝の右大臣拝賀の式典には、お告げのことが気になり、義時は気の進まぬまま御剣の役として参加したが、途中まで列が進むと戌神将の化身と思われる白い犬が現われ、にわかに気分が悪くなり、代役を頼んで列を離れた。すると、その後、公暁(2代将軍・頼家の子)による実朝暗殺が起こり、義時の代役で御剣の役を務めた者(源仲章)も殺された。義時が、益々信心を深めたのはいうまでもない。
ちなみに、やや余談となるが「京都や奈良と比べると、鎌倉は見るべき仏像が少ない」と言われるが、覚園寺本堂の薬師三尊像と十二神将像は、何度でも見るべき価値があると思う。ついでながら、私の個人的な考えとして、鎌倉の仏像ベスト3を選ぶならば、次のようになる。
- 北鎌倉の東慶寺の「水月観音像」(普段は水月観音堂に安置。冬季の宝物展の時期だけ、宝蔵に展示)
- 西御門(にしみかど)の来迎寺の「如意輪観音像」(ホームページ上で、当面、拝観休止となっている)
- 覚園寺薬師堂の仏像群
さて、先を急ぐことしよう。覚園寺から鎌倉宮までは来た道を戻り、今度は瑞泉寺方面へと歩を進める。途中、電柱の住所表示に目を留めてほしい。この辺りの地名は「二階堂」といい、次に向かうのは、この二階堂の地名の由来となった「永福寺(ようふくじ)」という寺院跡である。
「二階堂」の地名表示
この「永福寺跡」は、ほんの10年くらい前までは、秋になるとススキが生い茂る野原だったが、近年、大変きれいな史跡公園として整備された。ちなみに同じ字を書くが、東京の井の頭線の駅は「永福町」(えいふくちょう)、鎌倉のほうは「永福寺」(ようふくじ)と読む。
史跡公園として整備された永福寺跡
説明も充実している
永福寺は、頼朝が建立した三大寺院の1つとされる。他の2つは鶴岡八幡宮寺(明治初年の神仏分離令が出されるまでは、神仏習合の寺院だった)と、頼朝の父・義朝の霊を弔うために建立された勝長寿院(廃絶し、現在は別名の「大御堂(おおみどう)」に由来する「大御堂ヶ谷」という地名のみが残る)である。
さて、この永福寺は、奥州で亡くなった、頼朝の弟の義経や、頼朝自らが兵を率いて攻め滅ぼした奥州藤原氏一族の鎮魂のために建立された。
どのような建物だったかというと、二階建ての「二階堂」を中心に、南側に阿弥陀堂、北側に薬師堂が配され、それぞれが廊下で結ばれていた。そして、南北両サイドの建物からは、正面の池に向かってさらに廊下が延び、先端には「釣殿」が配されていたほか、庭には「遣水(やりみず)」などもあったという。寺院というよりも、まるで平安貴族の屋敷のようである。
ちなみに、この「二階堂」は、平泉の中尊寺にあった「二階大堂大長寿院」を真似たものとされる。金の一大算出地であった当時の奥州平泉の文化レベルは非常に高く、遠征先で「二階大堂大長寿院」を目にした頼朝は、これと同じものを鎌倉にも建てたいと思ったのだという。
なお、下記リンク先には、鎌倉市と湘南工科大学との協働プロジェクトで再現した永福寺のCG画像がある。
http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html
この永福寺のそばに邸宅を構えたのが、『鎌倉殿の13人』の1人であり、文官として大江広元を補佐する役割を果たした二階堂行政であった。こうして地名や人名になった二階堂であるが、永福寺自体は室町時代に廃絶した。
【地図】
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1ELCW2J6nG2U5G1OxoIcexyU2oSXR11xv&usp=sharing