連載の残り5回で、『鎌倉殿の13人』に関連する史跡巡りモデルコースの後半を紹介する。
今回の目的地である宝戒寺(ほうかいじ)へは、前回訪れた妙本寺から、小町通りをさらに北上する。途中、日蓮聖人が市中の人々に辻説法をした場所であるとされる「日蓮辻説法跡」などを見ながら、鶴岡八幡宮門前を通る道(横大路)と交差する地点まで進む。
日蓮辻説法跡
その角にあるのが、初秋の9月中旬頃、境内一面に白萩が咲き乱れ、「鎌倉の萩寺」と呼ばれる宝戒寺である。
宝戒寺参道
現在、宝戒寺の境内になっているこの場所には、鎌倉時代、執権北条氏の屋敷があった。つまり、ここは『鎌倉殿の13人』の中心舞台とも言える場所なのである。
執権北条氏の邸宅が、ここにあったことを示す案内碑が、参道の左手に立っているので見てみよう。
北条執権邸址であることを示す案内碑
碑に記載されている内容に少し補足を加え、現代文にすると以下のようになる。
この場所には北条氏の「小町亭」があり、2代執権・義時から、幕府滅亡時の執権・高時まで、歴代の執権がこの場所に住んだ。
1333年5月、新田義貞軍が鎌倉に攻め入った際に灰燼に帰したが、1335年、足利尊氏が北条一族の怨魂を鎮めるために、「小町亭」跡地に宝戒寺を建立した。
この案内碑には、「北条氏の菩提寺東勝寺をこの亭の故址に再興し」と書かれているが、宝戒寺とは別に、東勝寺も焼失後まもなく再興され、室町時代には関東十刹に列せられており、碑文の執筆者が事実関係を混同したものと思われる。
ちなみに、最後の執権・北条高時以下、北条一族が最期を遂げたのは東勝寺においてであり、場所は宝戒寺の裏手にあたる。
この「鎌倉幕府終焉の地」である東勝寺跡は、『鎌倉殿の13人』とは時代が異なる史跡であるものの、宝戒寺から、徒歩5分くらいなので足を運んでみるのをオススメする。この東勝寺は単なる寺院ではなく、もしものときの最後の砦の役割を果たす、城郭のような機能も果たす建物だったらしい。
東勝寺跡
なお、東勝寺跡のすぐ近くの山裾には、「北条高時腹切りやぐら」という、なんともおどろおどろしい名前のやぐら(横穴式墳墓のこと)が、ぽっかりと口を開けている。
その先には、材木座海岸を一望できる展望台へと通じる祇園山ハイキングコースの登山口があり、時折、リュックを背負ったハイカーが、おそらく鎌倉幕府終焉の地とは知らずに通り過ぎていく。
【地図】
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