来迎寺から、次の目的地である妙本寺へは、小町大路を北へ歩いて15分ほどである。途中、横須賀線の踏切を渡った、すぐ先の道端には「辻の薬師堂」という小さなお堂がある。堂内には「なぜ、こんなところに?」と思うような、ずい分と立派な薬師像が祀られているが、実は本物の薬師像は鎌倉国宝館に所蔵されており、ここにあるのはレプリカだという話を聞いて、納得である。
さて、その先の「大町四ツ角」付近には、魚町(いおまち)橋、米町会館といった、人々の生活が想起されるような地名が、現在も残っている。鎌倉時代、小町大路沿いの、ここから南側一帯(材木座)は、庶民の町だった。一方、これから向かう北側のエリアには、御家人たちの屋敷が並んでいた。
次の目的地・妙本寺の境内にも、鎌倉時代初期には、有力な御家人の屋敷があった。
妙本寺の参道は緑に吸い込まれるように奥へ奥へと続く
初めて妙本寺を訪れた人は、その境内の広さに驚くだろう。建長寺や円覚寺など、ごく一部を除けばこぢんまりとした寺が多い鎌倉にあって、妙本寺は非常に広大な敷地を持つ寺院である。参道は山の緑に吸い込まれるように、谷戸(やと)の奥へ奥へと続いている。
谷戸というは、山の尾根と尾根に挟まれた谷間のような地形を指す。鎌倉の寺院は、このような谷戸に建っているものが多い。また、それぞれの谷戸には、名前が付いており、例えば、紅葉の名所として知られる瑞泉寺のある谷戸は「紅葉ヶ谷(もみじがやつ)」と呼ばれている。
妙本寺の谷戸の名前は、「比企ヶ谷(ひきがやつ)」という。これで、もうお分かりかと思うが、ここは元々、『鎌倉殿の13人』の1人、比企能員(ひきよしかず)の屋敷があった場所なのである。
比企氏は鎌倉時代初期に北条氏と覇権を争った、非常に重要な御家人であり、その領地だった埼玉県中部には、今も「比企郡」という地名が残っている。
妙本寺山門脇に立てられた「比企能員邸址」の案内碑
この比企一族について語る上で重要なのが、比企尼(ひきのあま)である。この女性は、頼朝の乳母を務め、頼朝が伊豆に流された後も、頼朝が挙兵するまでの20年間、ずっと仕送りをするなど援助を続けた。
その後、頼朝が出世すると、それまでの尼の恩への報いとして、比企一族は幕府の有力御家人として取り立てられた。嫌らしい言い方をすると、比企尼の頼朝への投資が実を結んだのである。ただし、比企尼には男子が生まれなかったから、比企氏の家督を継いだのは、甥の能員だった。
その後、能員の娘の若狭の局(わかさのつぼね)が頼家(頼朝の長男・後の2代将軍)の側室となり、長男の一幡を産むと、比企氏は将軍家の外戚として権勢を振るうようになる。平安時代に藤原北家が天皇家の外戚となって権勢を振るったのとまったく同じ構図である。この時代は血縁関係が物を言ったのだ。
さて、この状況を面白く思わなかったのが北条氏である。比企氏と北条氏の関係が先鋭化したのは、頼朝の死から4年後の1203年の夏、2代将軍・頼家が急病で一時、危篤状態に陥ったときだった。頼家に万が一のことがあったときに、次の将軍職を誰に継がせるかを巡って、一幡を推す比企氏と、頼朝の次男・千幡(後の実朝)を推す北条氏が対立したのだ(実朝の乳母は、北条時政の娘の阿波局)。
この辺りは物語として非常に盛り上がるシーンだが、大河ドラマで描かれるだろうから詳細の説明は省くことにする。結果だけ言うならば、能員は北条時政によって謀殺され、北条方の小山、畠山、三浦、和田などの大軍に屋敷を囲まれた比企一族は、主である能員を失ったこともあり、自ら屋敷に火を放って自決したのである。
これにより、梶原氏に続き、幕府草創期の有力御家人の一族が、また1つ姿を消した。
妙本寺境内の「比企能員公一族の墓」
比企屋敷の焼け跡から見つかった焼け焦げた一幡の小袖が埋められているという「一幡の袖塚」
さて、今回までで、全行程のおよそ半分を歩いた。妙本寺は鎌倉駅のすぐ近くなので、歩き疲れてしまったならば鎌倉駅から帰途につき、続きは後日としてもいい。
【地図】
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