前回は、長谷の甘縄神明神社に足を運んだ。今回は、江ノ電で「長谷駅」から2駅先の「和田塚」駅に向かう。
江ノ電の駅名「和田塚」とは何なのだろう?と思われている方がいるかもしれない。実は、駅のすぐ近くに『鎌倉殿の13人』の1人、和田義盛とその一族に由来する「和田塚」という名前の塚があるのだ。
和田塚外観
「塚」というのは、元々、「盛り土をした墓(古墳)」を意味する言葉であるから、ここには和田義盛とその一族が埋葬されているのだろうか。これについて、『鎌倉の地名由来辞典』(三浦勝男編 東京堂出版)を調べてみると、以下のように書いてある。
名前の由来は和田義盛の乱に際し、戦死した和田一族の遺体を葬った場所とされ、塚上にはその旨を記した石碑と五輪塔群があるが、巷間でこう云われるようになったのは、明治三十四年(一九〇一)以降のことであり、塚自体と和田氏の乱との直接的な関連はない。
出鼻をくじかれるようで、なんとも残念な気分になるが、気を取り直して、塚の上に設置されている由比ヶ浜青年会が設置した案内板にも目を通してみよう。
塚上に立てられている「和田一族戦没地」「和田義盛一族墓」の石碑
由比ヶ浜青年会が設置した案内板
案内板には、「和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている。大正末年ごろの開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った」とある。つまり、この塚は、開発により周囲を切り取られ、頂上部分のみが残った古代の古墳なのである。
ではなぜ、古墳と和田一族が結びつけられたのか。それを知るために、和田義盛とはどのような人物だったのか、また、1213年に起きた「和田合戦」についても説明しよう。
和田氏は、三浦半島を治める三浦氏の支族の1つであり、同じく「鎌倉殿の13人」の1人である、三浦本家を継いだ三浦義澄とは叔父と甥の関係にある(義盛が甥)。
頼朝旗揚げに際しては義盛も三浦一族の一員として、頼朝に味方すべく出陣した。
このとき、三浦半島を拠点とする三浦軍がたどったのは、今でいうならば横須賀線と東海道線を乗り継いで、横須賀から伊豆を目指す経路だった。
ところが、三浦軍は大雨による酒匂川の増水に阻まれ、石橋山合戦には間に合わず、やむなく三浦半島に引き返すことになったのだが、その帰路、由比ヶ浜で、平家方に参戦していた秩父党の畠山重忠の軍勢と合戦になってしまう(小坪合戦)。
三浦、畠山の両家は、今回の戦では、たまたま源氏方と平家方の敵味方に分かれたものの、元々、両家は縁者であり、互いに怨恨があるわけでもなく、わざわざ交戦する必要はなかった。
それにもかかわらず合戦になったのは、『源平盛衰記』によれば、血気盛んな義盛が畠山勢の前で名乗りを上げ、また、遅れてきた義盛の弟・義茂が事情を知らずに、畠山勢に攻撃をしかけたからだという。
畠山軍はこの由比ヶ浜での敗戦の屈辱を晴らすために、数日後、武蔵国から河越重頼らの軍勢も呼び寄せ、三浦氏の本拠地である衣笠城を襲う。義盛らは奮戦したものの、先日の由比ヶ浜の戦いで疲れ果てており、城を捨てて海上に難を逃れ、海上で頼朝らと合流し、安房(房総半島南部)へと渡った。
千葉県安房郡鋸南町の「源頼朝上陸地」の碑
このときに、義盛が頼朝に、「もし、佐殿(頼朝のこと)が天下をお取りになったならば、どうか私を侍所の別当(警察・軍事の長官)に任じてください」と言い、この言葉に喜んだ頼朝は、その通りにすると約束した。そして、政権樹立後、頼朝はその約束を違えることなく、義盛を初代侍所別当に任じたというエピソードは有名である。
また、頼朝が安房に逃れた当時、房総半島には上総広常、千葉常胤(つねたね)という二大勢力があった。頼朝は、上総広常の下へは和田義盛を、千葉常胤の下へは前回紹介した安達盛長を使者として派遣した。その結果、上総広常が出陣を渋り、一方の千葉常胤がすぐに出陣に応じたのは、無骨者の和田義盛と如才ない安達盛長の違いだとも言われる(もちろん、それだけが理由ではないが)。
さらに、梶原景時と義盛のエピソードとして、こんな話もある。景時から「わしは前々から侍所別当になりたかった。1日でいいからやらせてはもらえないか」と頼まれ、人の良い義盛が、ちょうど服喪期間中だったのでそれを許したところ、そのまま職を奪われてしまったというのである。
こうした逸話を紹介すると、義盛というのは、なんともお人好しで不器用なオヤジという印象を受けるが、平氏追討や奥州合戦では活躍を見せるなど、頼朝の信任厚い武将だった。
だが、1213年、義盛の運命を決定づける出来事が起きる。この年に発生した北条氏打倒の陰謀に、義盛の子と甥が加わっていることが明らかになったのだ。
義盛は、将軍・源実朝の下へ助命の嘆願に訪れる。しかし、甥は陰謀を企てた張本人であるとして許されず、陸奥へ配流と決まった。しかも、当時、罪人の屋敷はその一族に下げ渡される慣習であったにも関わらず、甥の屋敷は別の者の手に渡されるという恥辱も受けた。これは、三浦一族の勢力を削ごうとする執権・北条義時による、義盛に対する挑発だったのだ。
この挑発に、まんまと乗せられた義盛は、「打倒義時」を掲げ挙兵してしまう。しかし、三浦本家の加勢も得られず、2日間にわたる激戦の末、義盛らは由比ヶ浜で討ち死を遂げ、和田一族は滅んだ。
「和田塚」が和田一族の墓かどうかはさておき、数百年前、この地で和田一族が壮絶な最期を遂げたのは、紛れもない事実である。
【地図】
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