仏行寺からバス通りに戻り、次に向かうのは長谷である。
長谷と言えば、大仏様(高徳院)や観音様(長谷寺)が有名な鎌倉屈指の観光エリアだが、今回訪れるのは、バス通りから一歩奥に入った、静かな鎮守の森に囲まれた甘縄神明宮という神社である。
甘縄神明宮参道入口。「長谷観音」バス停または「海岸通り」バス停が最寄りである
社伝によれば、この神社が創建されたのは710(和銅3)年であり、神社仏閣の多い鎌倉の中でも、かなり古い歴史を持つ社である。ちなみに、私の知る限り、鎌倉市内で最古の神社は腰越の龍口明神社で552(欽明天皇13)年の創建。最古の寺院は杉本観音で734(天平6)年の創建である。
一般に、鎌倉の歴史は源頼朝が入府して以降に始まったと思われがちだが、古代には鎌倉郡の郡衙(ぐんが。郡役所)が設置されるなど、鎌倉には「頼朝前史」とも言うべき長い歴史があるのだ。
さて、この甘縄神明社にやってきた理由は、この付近に『鎌倉殿の13人』の1人である安達盛長の屋敷があったからである。神社の敷地入口に、大正時代に鎌倉青年団が立てた、「安達盛長邸址」を示す案内碑がある。
「安達盛長邸址」を示す案内碑
昔の文は読みづらいので、現代語に訳しつつ少し内容を補足すると、安達盛長とは、おおよそ下記のような人物である。
安達藤九郎盛長は、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)で流人生活を送っていた当時から従者を務め、頼朝の旗揚げに際しては、使者として板東中を駆け巡り、豪族たちの糾合に努めるなど活躍した。石橋山の敗戦後は、頼朝とともに房総半島南部の安房に逃れ、下総を支配していた有力な豪族である千葉常胤(つねたね)を説得して味方にすることにも成功した。
その後の頼朝政権下では上野国の奉行人となり、頼朝の死後には三河国の守護になるなど、宿老として幕府内で重きをなした。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、頼朝が「藤九郎盛長甘縄之家」を訪れたとの記述が散見され、頼朝と盛長の親しい関係がよく分かる。そして、盛長の子孫は、代々、秋田城介(あきたじょうのすけ)という官職を世襲した。
なお、『鎌倉殿の13人』の1人、足立遠元は盛長の兄の子、つまり甥っ子である。
さて、神社境内に歩を進めると、拝殿へと続く石段の下に「北条時宗公産湯の井」という井戸がある。北条時宗といえば、元寇(蒙古襲来)のときの執権であり、2001年の大河ドラマ『北条時宗』では、狂言師の和泉元彌さんが時宗役を演じたのをご記憶の方もいるだろう。
伝・北条時宗公産湯の井
なぜ、ここに「北条時宗公産湯の井」(当時の井戸がそのまま残っているわけではないだろうから、伝・北条時宗公産湯の井というべきか)があるのかというと、時宗の祖母の松下禅尼が安達氏の出身(盛長の孫)であり、時宗は、祖母の実家であるこの場所で生まれたとされるからである。
安達氏は、このように女子を北条家へと嫁がせ、北条氏の外戚という立場をとった。これにより権力を確かなものにしたかに思われたが、盛長のひ孫に当たる安達泰盛は、1285年12月の「霜月騒動」で、対立していた内管領(北条得宗家の執事)平頼綱によって、一族もろとも滅ぼされた。
その後、1293年に、今度は平頼綱が主君である執権・北条貞時に討たれると(平禅門の乱)、その後、泰盛の弟・顕盛の孫の時顕が政界に復権することになる。
こうして安達氏は、幕府創業時からの有力御家人が次々と滅ぼされていく中にあって、1333年の鎌倉幕府滅亡まで、その命脈を保つのである。
【地図】
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