前回は、湘南深沢駅から梶原の御霊神社まで歩いた。今回は、その足で御霊神社の境内に隣接する深沢小学校に向かうことにする。
この連載の第2回でも触れたが、『新編相模国風土記稿』に「梶原兄弟の墓なり」と記述されている4基の五輪塔(地、水、火、風、空を表現した石塔)が、小学校の敷地内にあるのだ。
学校の受付に挨拶し、校舎の裏手にまわると、岩肌に横穴が穿(うが)たれ、そこに4基の五輪塔が並んでいる。鎌倉では中世に作られた横穴式墳墓のことを「やぐら」と言うが、この横穴は、比較的新しい時代に掘られた、もしくは形が整えられたもののように見える。
そして、もし、『風土記稿』に書かれている通り、この五輪塔が梶原兄弟の墓、もしくは梶原一族の墓なのであれば、4基のうちのいずれかが景時の墓ということになろう。
深沢小学校敷地内にある「梶原一族の墓」と伝わる4基の五輪塔
さて、五輪塔の見学が済んだならば、今度は、先ほどの新川を渡って南側のバス通り(県道藤沢鎌倉線)に出る。次の目的地である仏行寺は、1つ先の「梶原口」バス停が最寄りだが、歩いてもたいした距離ではないので散歩を楽しむことにしよう。
仏行寺にも梶原一族に関連する史跡があるので、ここで、梶原景時とはどのような人物だったのか、あらためて復習しておくことにする。
景時は、当時の東国人には珍しく教養があり、実務能力も高かったので頼朝の信任厚く、「鎌倉ノ本躰(ほんたい)ノ武士(武士として理想的な者・鎌倉殿頼朝の第一の家来)」と評された。しかし、頼朝の弟の義経と対立したほか、人を陥れる讒言(ざんげん)癖があったとされ、他の御家人達の恨みを買い、頼朝の死後、ある事件がきっかけで、御家人66人連名による景時排斥を求める連判状が将軍頼家に提出された。
もはや、鎌倉に留まることはできないと悟った景時は、所領の相模一宮(現・寒川町)の館に退去する。そして、1200(正治2)年、一族を率いて京都へ向かう途上、駿河(現・静岡県)の清見関付近で在地武士と戦闘になり、景時自身は自害し、子らも討ち死した(梶原景時の変)。
寒川町の「梶原景時館跡」の案内板
「梶原景時館跡」に祀られている天満宮
このように景時の最期は、幕府草創期から活躍し、侍所別当(現代で言えば警察庁長官)という要職まで務めた名のある武将にしては、実にあっけなかった。頼朝の死から、わずか1年後の出来事である。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』が記すところによれば、景時が京都に向かった理由は、上洛して九州の軍兵を集め、甲斐源氏の武田有義を将軍に立て、謀反を起こそうとしていたのだとされる。
だが、『吾妻鏡』は少し後の時代に、北条氏によって編纂されたものだから、政権側に都合良く書かれた可能性があり、真実は、景時の鎌倉追放から、上洛の途上、北条氏のお膝元である駿河国で討ち取られるまでの一連の出来事は、北条氏が仕組んだ陰謀だったのではないかとの説もある。
北条氏は、この後、比企氏、和田氏、三浦氏などのライバルたちを、権謀術数を使って次々と蹴落とし、権力を奪取していくのだが、この「梶原景時の変」は、その最初だったというわけだ。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、この辺りをどのように描くのか、楽しみである。
さて、「梶原口」バス停付近のドラッグストアのところの交差点から南へ、笛田公園を目指して坂を上っていく。コロナ自粛で足腰が弱っている身には、少しキツい急坂である。
笛田公園が見えたら、公園敷地手前を右手に入り、狭く曲がりくねった坂を下っていくと、やがて、目指す仏行寺の門前に出る。
仏行寺山門
この仏行寺の裏山の山頂に、「源太塚」と呼ばれる小さな塚がある。源太とは、景時の嫡男で、景時とともに駿河で討ち死を遂げた梶原源太景季(かげすえ)のことである。景季と言えば、歴史好きの人であれば、「佐々木高綱との宇治川の先陣争いを演じた武者か」とピントくるであろう。
また、景季は奥州藤原氏との戦いで武勲を立てるなどし、朝廷から左衛門尉という官職に任じられるなどした。
源太塚。塚のある裏山の頂上へは、長い石段を登っていく。仏行寺裏山は墓地になっているので、静かにお参りされることをお願いしたい
なぜこの塚が「源太塚」と呼ばれているのかといえば、景季の片腕が埋められているとの伝説があるのだ。
だが、駿河で亡くなり、しかも、最後は謀反の疑いをかけられた景時一族の墓や塚が鎌倉にあるというのは、少し無理があるように思う。亡き殿の一族を偲んで、領民がこうしたものをつくり、言い伝えが生まれたとみるのが妥当と思われる。
【地図】
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