では、この「13人」の中に、湘南モノレール沿線にゆかりの人物はいるのだろうか。実は1人だけいる。⑦梶原景時(かじわらかげとき)である。
景時は源平の騒乱期を描いた時代劇には、必ずと言っていいほど悪役として登場する。最初に景時が登場するのは、頼朝が石橋山(現・小田原市石橋)合戦で敗れた直後の場面である。
1180(治承4)年、「打倒平氏」の旗揚げをした頼朝は、8月17日に伊豆国目代(国司の代官)の山木兼隆の屋敷を襲撃し、殺害する。その直後、頼朝は板東を治める板東平氏の有力な武将である大庭景親(おおばかげちか)率いる軍勢と石橋山で交戦する。しかし、頼朝軍300騎に対し、大庭軍は3000騎と十倍の戦力差があり、惨敗を喫した頼朝は山中を敗走し、「しとどの窟(いわや)」(※1)に身を隠した。
石橋山古戦場跡(小田原市)
しとどの窟(真鶴町)
ここで登場するのが景時である。平家方として参戦(※2)した景時は、洞窟に身を隠した頼朝を発見するが、どういうわけか見逃すのである。その後、房総半島に逃れ、力を盛り返した頼朝が平家方を打ち破り、鎌倉に政権を樹立すると、景時は頼朝に仕え、御家人に列するようになる。
景時は当時の東国人にしては珍しく教養があり、実務能力も高かったので頼朝の信任厚く、「鎌倉ノ本躰(ほんたい)ノ武士(武士として理想的な者・鎌倉殿頼朝の第一の家来)」と評されるほどであった。しかし、一方で屋島の戦や壇ノ浦の戦では、頼朝の末弟・九郎義経と対立し、さらに讒言(ざんげん)癖があったことから、多くの御家人たちとも対立するようになる。
最後は、御家人66名の連名による弾劾を受けて鎌倉を追われ、いったん相模国一宮(現・寒川町)の所領に退く。さらにその後、都を目指して落ち延びる途上、駿河国清見関(現・静岡市清水区興津)で地元の武士と戦闘になり、景時は自害し、多くの一族が討死した(※3)。
この景時が、現在の湘南モノレール湘南深沢駅の東側一帯の梶原郷(現・鎌倉市梶原)を領していたのは間違いなく、梶原1丁目には、景時の祖先であり地元で英雄視されている鎌倉権五郎景政(※4)を祭る御霊神社がある。また、深沢小学校敷地内には、景時とその一族の墓と伝わる4基の五輪塔がある(※5)。
この御霊神社と五輪塔については、『新編相模国風土記稿』に以下の記述が見られる。(旧字体は著者が新字体に変換)
○御霊社 村の鎮守とす鎌倉権五郎景政が霊社なり。木像二体を神体とす(一は長一尺二寸余、一は少しく小なり、景政夫婦の像なりと伝ふ)。傍に梶原平三景時の木像(長一尺二寸、近世修造を加へしものなり)を置く。(後略)
○古碑四基 五輪の頽碑。村北山腹の窟中に並立す(高各三尺五寸許)。梶原兄弟の墓なりと伝ふるのみ。鐫字も漫滅す。
鐫(せん)は、刻むという意味
さて、大河ドラマが放送されれば、13人にまつわる史跡巡りを楽しみたいと思う人も多いだろう。次回以降は、モノレール沿線を起点に、鎌倉市内の『鎌倉殿の13人』に関連する史跡を順に巡ってみたいと思う。
※1 真鶴町のほか湯河原町にも、頼朝が身を隠した「しとどの岩窟」であるとの伝承が残る洞窟がある。
※2 景時の家系は、高望王を始祖とする平氏一族であり、その中で板東に土着したため板東平氏と呼ばれる(平清盛の伊勢平氏も、元々は板東平氏の庶流だった)。板東平氏で有名な人物といえば平将門がいる。室町時代初期に完成した代表的な系図集『尊卑分脈』によれば、景時は高望王から数えて8代目の子孫である。また、石橋山で頼朝と対戦した大庭景親は景時の従兄弟に当たる。
※3 『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文堂)には、戦の後、「総じて(筆者注:梶原一族の)伴類三十三人の首を路頭に懸けた」とある。
※4 景時の曾祖父に当たる景政は源義家(頼朝の祖先)に従い、奥州の後三年の役(1083-1087)に従軍。敵に右目を矢で射貫かれながらも奮戦したという伝説が残る英雄。大庭御厨(みくりや)という広大な荘園を開墾し、一族繁栄の基礎を築いた。
※5 深沢小学校の敷地内にあるので、見学には事前連絡が必要。電話:0467-44-1226