まずは、そもそも『鎌倉殿の13人』とは何かというところから話を進めたいと思う。「ソラdeブラーン」は、あくまでもモノレールのファンサイトなので、歴史にあまり深入りしすぎないよう、簡単に説明したい。
まず、「鎌倉殿」というのは、厳密に言うと少し違うのだが(※)、鎌倉幕府の「将軍」を指す言葉と考えて差し支えない。流人の身から武家の棟梁にまで昇った源頼朝を初代将軍とし、将軍の座は頼朝の長男の頼家、そして、次男の実朝へと引き継がれていく。
頼朝が流人生活を送った蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)の頼朝・政子夫妻像
なお、ここで言う「将軍」とは、朝廷から授けられる官職「征夷大将軍」のことである。征夷大将軍とは、元々、蝦夷(東北地方)を平定するために任じられた令外官(りょうげのかん 律令に定められていない臨時職)であった。
電話やインターネットなどのない大昔のことであるから、都から遙か彼方の遠征先で戦を指揮する将軍は、いちいち朝廷の指示を仰ぐことができない。そこで、将軍には軍事・行政・裁判権を行使する非常大権が与えられた。
頼朝は、征夷大将軍への任官を強く希望したと言われるが、それがなぜかと言えば、この非常大権に着目したのだ。
都育ちの頼朝は、幼い頃、祖父や父が朝廷の権力争いに翻弄され、命を落とすのを見て育った。また、権力を握った平家が、やがて「貴族化」という形で朝廷の政治システムに取り込まれ、滅亡への道を進んでいったことも、熟知している。
そこで頼朝は、「京都」や「朝廷」というシステムの外に身を置き、鎌倉という「遠征先」で独自の権力を構築する道を選んだのである。
源氏山公園の源頼朝像
次に、「13人」とは何かであるが、これは将軍を支えた有力な家臣団を指す。1199年に頼朝が亡くなると、将軍職は頼朝の嫡子・頼家に継承されたが、当時、頼家がまだ18歳と若年であり、また、訴訟を恣意的に裁断するなど素行に問題があったため、頼家の直裁を禁じて13人の有力者による合議制が取られることになった。
鎌倉幕府が編纂した史書『吾妻鏡』の「建久十年四月十二日、癸酉(みずのととり)」(建久10年=1199年)の項には、以下の記述が見られる。(原文だとかなり読みづらいので、吉川弘文堂の『現代語訳吾妻鏡』による)
様々な訴訟については、羽林(源頼家)が直に決断されることを停止し、今後は大小の事については北条殿(時政)・同四郎主(義時)ならびに兵庫頭(中原)広元・大夫属入道善信(三善康信)・掃部頭(藤原)親能 [在京している]・三浦介義澄・八田右衛門尉知家・和田左衛門尉義盛・比企右衛門尉能員・藤九郎入道蓮西(安達盛長)・足立左衛門尉遠元・梶原平三景時・民部大夫(二階堂)行政らが談合を行って、計らい処置する。その他の者が理由もなく訴訟のことを(頼家に)取り次いではならない、と定められたという。
羽林(うりん)は、頼家の官職である左中将の唐風(中国風)の呼び方
現代語に訳しても、なお難解なので、13人の名前を分かりやすく整理すると、以下のようになる。(年齢順。一部推定)
①三浦義澄(みうらよしずみ)、②足立遠元(あだちとおもと)、③安達盛長(あだちもりなが)、④北条時政(ほうじょうときまさ)、⑤三善康信(みよしやすのぶ)、⑥二階堂行政(にかいどうゆきまさ)、⑦梶原景時(かじわらかげとき)、⑧八田知家(はったともいえ)、⑨藤原(中原)親能(ふじわらちかよし)、⑩比企能員(ひきよしかず)、⑪和田義盛(わだよしもり)、⑫大江(中原)広元(おおえひろもと)、⑬北条義時(ほうじょうよしとき)
馴染みのない名前が多いかもしれないが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公は、前述したとおり、第2代執権(将軍を補佐する役職)を務めた⑬北条義時である。そして義時の父が初代執権の④時政であり、この2人はご存じの方が多いかもしれない。
※ 頼朝は、1192年に征夷大将軍に任官される以前から、「鎌倉殿」と呼ばれていた。