全50回のこの連載も、いよいよ終盤である。残りの4回で、1971年7月の全線開通後、半世紀の湘南モノレールの歩みを振り返ることにする。
全線開通後の大きな出来事を順に見ていくと、開通後5年を待たずに朝の通勤時の混雑がひどくなった。この時期、湘南町屋駅から湘南深沢駅にかけては、野村不動産による梶原団地約46万㎡、大平山団地約13万㎡、および丸山団地約21万㎡と大規模な宅地造成が行われ、また、西鎌倉駅、片瀬山駅付近も西武不動産等による大規模な宅地造成があり、折からの日本列島改造ブーム、高度経済成長期もあいまって、これらの住宅への入居者が急増していたのである。
3両編成化に伴う中間車両の上架(吊り上げ)作業
このような状況に対し、沿線に工場のある三菱電機労働組合鎌倉支部をはじめ、乗客から改善要望が強く出されるようになった。そこで、1975年2月に新造の中間車2両を増車し、全6編成中、2編成を3両運転にして、ラッシュ時の運行に当てる対策を行った。
しかし、こうした好景気もつかの間、1973年秋に発生したオイル・ショックの影響から、日本経済は1974年に戦後初のマイナス成長になる。その影響で住宅の売れ行きが頭打ちになるとともに、輸送人員も、いったん横ばいになった。
こうした中、1974年9月14日に本社所在地を鎌倉市常盤18番地に移転し、また、1975年4月27日には湘南モノレール労働組合が結成され、5月1日のメーデーに結成大会が開催された。
1980年3月にデビューした400形車両
1980年代は、次々と新型車が導入された。1980年3月には、湘南モノレールでは唯一の車内座席がロングシートである400形が登場。1988年3月からは、初の冷房車で、その後、長らく主力車両となる500形の投入が始まる。
また、輸送人員の面を見ると、1970年代後半から80年代半ばまでは、利用者数伸び悩みの状態が続いたが、80年代後半になると、上昇に転じた。これは、この時期に京急道路が鎌倉市に移管されたことにより、道路拡幅のできない制約の中で、道路交差点における信号機の増設や道路の改修工事が行われ、朝夕の時間帯に著しい交通渋滞が起こるようになり、その結果、定時運行が可能なモノレールが見直されたことの影響等によるものである。