ところが、こうした紆余曲折を経て、ようやく決定したかに思われた計画も、さらなる再考を余儀なくされる。まず、片瀬山付近の京急道路の地権者である2軒の寺院(本蓮寺、常立寺)が、本堂や墓地を見下ろす道路上をモノレールが走行するのは困ると道路使用に反対したことから、再びトンネルに変更する必要が生じた。
また、終点駅の位置も、洲鼻通り駅予定地に至る路線上の地権者(1軒の商店)の反対により、県道手前(現在の湘南江の島駅の位置)に後退せざるを得なくなったのだ。こうして、片瀬山はトンネルで通過、終点駅は県道手前という現在の路線が、1970年の秋頃に確定した。
ただし、この時点においては、湘南江の島駅はあくまでも中間駅の位置づけとし、将来的には、より海岸近くに駅(江の島海岸駅)を設置し、延伸する予定だった(※)。
終点駅候補地の変遷
1 | 1965年11月 | 終点の片瀬駅は小田急電鉄の片瀬江ノ島駅と境川を挟んで向かい側付近に予定。(「湘南モノレール(株)設立目論見書」) |
2 | 1966年12月 | 地元反対により片瀬江ノ島駅対岸の駅設置は断念。日立金属所有地を終点駅予定地に変更。1967年1月に同土地購入。 |
3 | 1970年03月 | 江ノ島鎌倉観光線(現・江ノ島電鉄)の江ノ島駅上空をモノレールが通過することに対する同社からの反対を受け、藤沢起点3,375m(洲鼻通り付近)で立体交差することで合意。洲鼻通り沿いに終点駅予定地を変更し、用地交渉に入る。 |
4 | 1970年10月 | 洲鼻通りの終点駅予定地は、付近の1軒の地権者の反対により断念し、県道手前(現・湘南江の島駅位置)で止めざるを得ない結論に。終点駅用地手配も完了。 |
なお、やや余談になるが、湘南モノレールが終点駅用地として日立金属工業から購入した土地・建物は、明治の中頃、大蔵大臣等を歴任し、後に朝鮮総督在任中に逝去した曾禰荒助(そねあらすけ)氏の邸宅で、台湾檜(ひのき)を輸入して造営した家屋をはじめ、数十本の松の大木を始めとする樹木が繁茂する庭園が広がるなど、非常に価値の高いものだった。
曾禰荒助邸(日立金属から入手した土地・建物)
曾禰荒助別荘跡は、現在は洲鼻南公園とマンションになっている
江ノ電唯一のトンネル極楽洞の出口上部に刻されている「極楽洞」の文字は、曾禰荒助の筆によるもの
しかし、駅用地として確保したものの、ここには駅が設置されなかったため、湘南モノレール片瀬事務所として使用後、1971年9月に売却している。現在その場所は、洲鼻南公園および、その南東側のマンションになっている。
これとは別に、もう1ヶ所、湘南モノレールが江の島周辺で購入した物件がある。江ノ電の線路から60mほど南側の洲鼻通りに面した1軒家で、1970年2月に購入し、1972年4月から男子独身寮(片瀬荘)として使用開始した。この家は「大沢の親分」として知られた故・大沢啓二氏の実家であり、洲鼻通りへの駅設置に向けた用地買収の一環として取得したものと思われる。
※ 実際には海岸までの用地確保は難しく、その後、1986年2月25日に湘南江の島駅-江の島海岸駅間の地方鉄道運輸営業廃止が許可され、湘南江の島駅が正式に終着駅として確定した。