大船―西鎌倉間の部分開通は成ったものの、終点・片瀬までの全通が急がれた。営業収支の面から見ると、やはり全線開通によるのでなければ日常経費を賄うにも不足しそうな状況だったのである。
残りの工事区間である西鎌倉―片瀬は、わずか2kmの短距離にも関わらず、用地取得においても土木工事面においても難問が山積していた。とくに目白山下駅から先は、用地問題を中心に複雑な経過をたどり、路線計画が二転、三転した。時系列で整理すると、以下のようになる。
まず、湘南モノレールの路線構想が持ち上がった初期には、終点駅は、小田急電鉄の片瀬江ノ島駅と境川を挟んで向かい側付近(※1)に予定していた。しかし、周辺住民の反対などがあり、断念せざるを得なくなる。
計画初期の段階では、現在、「ここは湘南」の石碑が立っている辺りに終点駅を予定していた
そこで、代替案として海岸まで100メートルの距離にある2,000坪の土地・建物を日立金属工業から2億2千万円で買受け、ここを終点駅として片瀬山トンネルから県道上を横断して江ノ電江ノ島駅構内上空を通過する計画(下の画像「終点付近略図」の「当初予定路線」)に変更した。
終点付近略図
しかし、この江ノ島駅上空を通過し、日立金属土地に終点駅を設置する計画は、江ノ電の反対を受けることになる。湘南モノレールからの立体交差申し入れに対し、1968年8月2日付で江ノ電から拒否回答の書面が送付されており、その概略は以下の通りである。
江ノ島駅構内は当社の経営上最も重要な部分に位置し、ここには本社ならびに電車乗務区・変電所・保線・電務区・駅施設・資材倉庫・寄宿舎・労組本部・共済会等の建物がある他、電車の折返し・留置・洗車等の当社にとって重要な路線が敷設されており、電車運転上はもとより会社の機能が集中している中枢部であります。
このような現状に於て、貴社モノレールにより構内が両断されるとすれば構内悪化は勿論のこと土地の価値は大幅に減少し、鉄道業はもとより関連事業を含めての今後の再開発構想にも大きな支障を来し、当社の発展に重大な影響を及ぼすことは充分に御推察いただけるものと存じます。
書面中にあるように、江ノ電にとって江ノ島駅は単なる途中駅ではなく、本社機能および鉄道運営上、重要な施設を備えた心臓部ともいえる駅であるから、その上空を他社路線が通過することに対する江ノ電側の拒否反応は当然であろう。
この江ノ電との立体交差問題は、なかなか結論が出ず、最終的には江ノ電の親会社である小田急電鉄の当時の会長、安藤楢六(ならろく)氏に仲裁に入ってもらい、結局、立体交差の位置をずらし、洲鼻通り付近(江ノ電の藤沢起点3.375km付近)で交差することを1970年3月20日付で江ノ電と合意し、協定を結んだ。
しかし、この位置での交差だと線形上、先に日立金属工業から入手した土地に駅を設置するのは難しく、せっかく2億円以上も出して入手したにも関わらず、同土地は放棄せざるを得なくなった。
以上の経緯から、ここで再び大幅な計画変更が必要となり、終点駅予定地を洲鼻通り入口から約200m入った地点(※2)に変更して用地交渉に入るとともに、片瀬山はトンネルを止め、京急道路上を通すことに変更した。(終点付近略図の「第二次予定線」)
※1 小田急の片瀬江ノ島駅改札を出て、境川に架かる弁天橋を渡った先、現在、「ここは湘南」の石碑が立っている場所である。当時、ここには「旅館洗心亭」があった。
※2 現在の「手作りのパン 湘南堂」から「ラーメン 晴れる屋」付近を中心とする一帯。