湘南モノレール建設は、路線の大部分が京急道路上を利用できたことから、用地買収の費用面でも労力の面でも、大いに助けられたのは間違いない。しかしながら、京急道路の約30%は借地であったこと、また残りの70%についても、駅用地はもちろん支柱を立てる際にも、道路をはみ出して基礎工事をする場合には、それぞれの土地の権利者と折衝しなければならいなど、一筋縄ではいかない場面も多数発生した。
とくに用地問題が紛糾したのが、路線両端の大船(第2期線)と片瀬(第4期線)エリアであり、ここでは、まず大船について述べる。
当時の大船は、根岸線(桜木町と大船を結ぶという意味で「桜大線」という呼称も用いられた)がいよいよ大船駅を目指して延伸されることが確実になったのをきっかけに、交通広場や都市計画道路の整備を含む大船駅東口周辺の再開発計画が持ち上がっている最中で、今後、交通の要衝として発展し、地価が上昇するのが確実な情勢だった。
1971年に橋上駅舎に建て替えられる以前、木造駅舎だった国鉄大船駅と駅前広場(提供:鎌倉市中央図書館)
具体的には1964年5月19日に根岸線の桜木町―磯子間が開通すると、いよいよ大船までの延伸が目前となり、当時は小さな木造駅舎だった大船駅の拡充整備と、ロータリーも設置できないような狭い駅前など駅周辺(東口)の整備が急務となった。当時の大船駅前の様子については、大船で丸安輪業を営んでいた佐々木泰三氏の著書『水の出る街、大船』(かまくら三窓社)に、以下のような描写がある。
ロータリーさえ設置できないほど狭い駅前の問題。その狭い駅前を曲がりくねって貫通する狭い車道。そこには歩道はなく、人々は電信柱をたよりに車を避けて歩く。道沿いの商店は道にせり出すように品物を並べ看板を出す。朝夕の通勤時には、横浜や東京に通う通勤客と、大船郊外にある工場や会社へと向かう通勤客が行き交う。
地元の人々、とりわけ商店街の人々にとって、最も切実だったのが、大船駅舎の横浜市側への移転問題だった。大船駅はちょうど鎌倉市と横浜市の市境に位置するが、根岸線延伸による利用者の急増が見込まれることから、思い切って横浜市側(砂押川の北側)の空き地を利用して、駅舎を移転しようという計画が出ていたのである。もし、これが実現すれば、鎌倉市側の商店街は壊滅的な打撃を受けることが容易に想像された。
そこで、同年7月には、山本正一鎌倉市長(当時)の呼びかけによって「大船駅前整備協議会」が組織され、駅前整備計画案の作成に着手した。また、各銀行の支店や西友ストアをはじめとする大型店出店の噂が出始めたのも、この頃である。
このような情勢だったから、湘南モノレールの大船駅乗り入れに向けての用地買収・建設工事にあたっては、この際とばかりに「ゴネ得」を狙う人もおり、予想以上に用地買収費用がかさんだのである。