こうした状況に追い打ちをかけるように、1967年11月18日にイギリス通貨・ポンド切下げという金融史上の大事件が起きた。経常収支の急激な悪化により、ポンド防衛を迫られていたウィルソン労働党内閣が最後の手段に打って出たのである。これに起因して国際金融情勢は大混乱に陥り、日本でも金融市場の引き締めに走った。
建設事務所に集う湘南モノレール幹部の面々
このような状況だったから、湘南モノレールの融資の話は一向に進まず、結局、1968年11月12日の三菱銀行幹部を交えた三菱3社トップ会談を経て、三菱銀行を中心に他の市銀、生保との協調融資の話がようやくまとまったのは、1969年2月下旬になってからだった。
この間、モノレール建設用地の取得や工事には一応着手してはいたものの、資金に対する確たる見通しがない中では、消極的な動きしか取れなかったのである。
地鎮祭
当時は物価上昇著しい高度経済成長期の真っ只中であり、買収予定の建設用地の地価高騰を黙って見守るしかなかった悔しさを、村岡氏(湘南モノレール専務・建設本部長)は、後にその手記『湘南モノレール設営の記録』(1971年発行)に以下のように綴っている。
資金に対する確たる見透しもなく、従って段々騰貴する用地相場を見乍(なが)らこれを買収することができず、用地費の比較的軽い地帯は無理をして工事を継続したけれど、用地費の嵩(かさ)む地域は用地未解決のため認可も遅れ、工事実施も遅れ、結局一九六九年に入ってから既に相当高騰したあとの用地手当を余儀なくされつつ工事を進めるということになり、よって建設費予算中用地費はもとより、基礎工事費、諸設備制作費等も相当値上がりした上、既に発注済みの工事等も時間待ちのため余分の費用を支払わねばならないこととなり、かてて加えて開業期日が大幅に遅延したことによる運賃収入の遅れなど、金銭的の損失は少く見積っても二〇億円を下らぬという結果になったことは、本計画推進の中心たる私として誠に残念に思うところである。