地方鉄道業免許交付を受け、翌1966年4月11日に東京の丸ビル精養軒にて、湘南モノレール株式会社の創立総会が開催された。設立時の株主構成は下表の通りであった。
設立時株主構成と出資額(授権資本10億円、払込資本5億円)
三菱重工業 | 150,000,000 |
三菱電機 | 50,000,000 |
三菱商事 | 50,000,000 |
京浜急行電鉄 | 50,000,000 |
八幡製鐵 | 50,000,000 |
富士製鐵 | 50,000,000 |
日本鋼管 | 50,000,000 |
東京海上火災保険 | 10,000,000 |
鹿島道路 | 10,000,000 |
大成建設 | 10,000,000 |
戸田建設 | 10,000,000 |
汽車製造 | 2,500,000 |
東急車輌 | 2,500,000 |
大日本塗料 | 2,500,000 |
日本教育観光(マリンランド) | 2,500,000 |
八幡製鐵、富士製鐵は、その後、合併して新日本製鐵(現・日本製鉄)に。
鹿島建設は、東京モノレール羽田線との関係を顧慮し、関連会社の鹿島道路名義で出資。合併等で名称変更した会社は、当時の会社名で記載。
当初の計画では会社設立後すぐにモノレール建設工事に着手し、1968年春ごろの全線開通を目指していた。ところが、実際に着工したのは、会社設立から1年半以上が経過した1967年12月になってからであった。なぜ、大事な時期に貴重な時間を空費することになったのか。
まず、最初に大きな問題になったのが、大石寺モノレール計画だった。大石寺(静岡県富士宮市)は日蓮正宗の総本山である。当時は創価学会が日蓮正宗から破門(1991年)される以前のことであり、学会による大石寺への月例登山会なども行われていた。その信者たちの交通の便を図るために、国鉄富士川駅から大石寺までを結ぶ約20kmの参詣用モノレールを建設するという話が創価学会のメインバンクであった三菱銀行から三菱3社にもたらされたのである。1966年2月のことであった。
大石寺三門と富士山
この話に、当時の三菱商事や三菱重工の役員が飛びついた。創価学会にモノレールを売り込むことができれば、「年間六百万人の参詣者全員を乗せる確実な収入を期待できる」(『設営の記録』)のだから、何も好き好んで多大なリスクを負ってまで、湘南モノレールなど建設しなくてもいいではないかという話になったのである。
結局、この大石寺モノレール計画は、共同経営が予定されていた富士急が、同社のドル箱であった信者のバス輸送事業を捨て去る踏ん切りが付かず、同年7月頃には沙汰止みとなったのだが、湘南モノレール建設計画はこの件によって、およそ半年を空費することになったのである。