結局、京急道路は私道であるという解釈が一応容認されたので、そのまま運輸省のみで話を進めてしまっても差し支えなかったはずなのであるが、運輸省は「建設省がモノレール建設に原則として反対ではない旨の了解を事前に取っておきたい」との慎重な姿勢を示した。背景には、同じ中央官庁でありながら、運輸省は戦前の鉄道省の後身、建設省は内務省の後身であるという戦前の官庁間の序列から、運輸省は建設省に対して、どうしても遠慮がちにならざるを得ないという事情があった。
モノレールが建設される以前の京急道路(町屋付近)
その後、運輸省鉄道監督局長から建設省道路局長宛に、湘南モノレールの免許に関する意見伺いの照会状が送られたが、建設省からの回答は一向になされなかった。当時の様子について、湘南モノレール発起人代表(村岡氏)から関係者に宛てた文書(1965年7月5日付)には、以下のように記されている。
私どもでも建設省当局、運輸省自動車局等とも連日のように折衝を致しました挙句、結局鉄道監督局長から運輸省自動車局長及び建設省道路局長に対し、本モノレール免許に関連する意見を質すため照会状を発送しました。そして色々な経緯を経て、自動車局長の回答は(中略)6月28日付で送られましたが、建設省道路局長の回答は目下同局高速道路課という担当部局だけでは手がつかぬ状態のまま局長等上司の指示を待つているという状態であります。
建設省側での審議が一向に進まなかった理由は、当時の建設省のモノレールに対する基本的反対の態度にあった。日本モノレール協会の専務理事を務められた松本成男氏が、『鉄道ピクトリアル』(No.504)に寄稿した記事(「開発から発展へ......わが国モノレール30年の歩み」)中には、以下のように記されている。
建設省では、モノレールの都市内道路への導入建設に抵抗を示した。
すでに首都高速道路が開通、都市内の交差点では道路同志(筆者注:原文ママ)の立体交差も現れていた。道路敷地内に建設されたこれらの巨大な構造物に比べて、モノレールの方がスマートであり、美観上も優れることは認識されていた。
しかし、建設省では「道路法」の建前から、道路は「上空から地中まですべて道路」であり、道路敷地および上下空間は「道路目的に沿って使用すべき」であるとし、原則として「道路に敷設するモノレール」に「地方鉄道法を適用する」ことには無理があるとしていた。
建設省は、こうした道路使用に関する原則論の下、京急道路はたまたま私道であるものの、これにモノレールの建設を簡単に認めてしまえば、今後、公道上にもモノレール建設の議論が波及するのではないかと危惧していたのである。
こうなると、もはや事務的なレベルでの解決は難しく、いわゆる政治的解決を図るほかない。日本エアウェイは、八方に手を尽くして建設省の説得工作に努めたが、とくに効果があったのが、社団法人日本モノレール協会(1964年6月8日に設立)初代会長の中村梅吉氏(建設大臣、自民党総務会長等を歴任。当時は文部大臣)を通じて運輸大臣や道路局長に話をしてもらったことだった。
地方鉄道業免許状(湘南モノレール株式会社)
その結果、1965年10月22日の運輸審議会付議を経て、申請から丸一年以上が経過した同年10月29日付で、ようやく地方鉄道業免許が交付されたのである。