ここで、やや本題から話が逸れるが、我が国で「モノレール」という言葉はいつ頃から使われるようになったのかについて触れておきたい。
これに関し、手がかりとなる証言が2つある。1つは帝国ホテル社長で、日本高架鉄道(東京モノレールの前身)の社長も務めた犬丸徹三氏の著書『ホテルとともに七十年』中の記述である。昭和29(1954)年に犬丸氏は、旧知の仲であったアルヴェーグ式モノレールの考案者、アクセル・レンナルト・ヴェナー=グレン博士から、「私は今度、モノレールの跨座(こざ)式のものを発明した。これは将来、日本でも必要になるであろう。貴下が、これを経営されてはどうか」と、日本へのモノレール導入を勧める書簡を受け取った。その際のことが以下のように記されている。
『モノレールなる言葉は、初めて聞くもので、私がこれについて何の知識も有しなかったことは、いうまでもない。技師の説明に一応の理解を得たものの、これが果して、わが国で実用化される可能性ありや否やの問題となると、到底、判断がつかなかった。』
上野懸垂線、開業時の出発式(提供:東京都交通局)
もう一つは東京都交通局工務部長を務めた塩入哲郎氏が『鉄道ピクトリアル』(1970年4月号)に寄稿した記事中に見られる以下の記述である。
『昭和30年に後に述べる理由により、東京都交通局が懸垂電車の1/2サイズの模型を上野公園内に遊戯施設を兼ねて建設しようとしたとき、この電車を親しみ易い名称にしたいと考えていた。たまたま1952年にロスアンゼルス市およびサンフランシスコ市で、コンサルタントに依頼して作製した両市の交通計画のうち、都市高速電道建設のためにモノレールの採用を提案した部分があり、それをモノレール計画という表現がしてあった。(中略)上野公園のモノレールも懸垂式を採用するつもりでいたので、上野公園の電車をモノレールと呼ぶことにきめ(以下略)』
上野懸垂線H型車両(提供:東京都交通局)
これらを見れば、少なくとも昭和30年前後までは、モノレールという言葉が世間一般には浸透していなかったことは明らかである。上野懸垂線(上野公園モノレール)の人気などに伴って、ようやく広まっていったようである。