本来であれば極めて難しいはずの京急電鉄との交渉が、このようにスムーズに進んだ理由について、村岡常務は『設営の記録』に、「(当時は)佐藤氏が京浜急行に革新的な気持ちで乗り込んできた当初の時期であったことが大きい。佐藤氏来任前の京浜急行だったら、あるいはこの事業への参加はもちろん自動車道を当社に貸与することさえ肯(がえ)んじなかったかもしれない。従って当社は設立できなかったかもしれない」と記している。
品川~泉岳寺間開通式でテープカットする佐藤社長(提供:京浜急行電鉄株式会社)
佐藤晴雄氏は1964年5月の京急電鉄社長就任後、久里浜線の延伸、都営地下鉄との相互乗り入れ、新橋駅の地下開発などに手腕を発揮した人物であり、佐藤氏の社長就任前であったならば、村岡常務が言う通り、交渉の過程は違ったものになっていたかもしれない。加えて、日本エアウェイの多賀社長と佐藤社長が、旧制一高、東大を通じて柔道仲間だったこと、また、当時の京急電鉄相談役の桐村四郎氏も、東大、国鉄において多賀社長と一緒だったなど人間関係のつながりがあったことも、日本エアウェイにとっては幸運だった。
ただし、京急電鉄内部も、当然のことながら一枚岩ではなく、バス運行を担当する自動車部などは、将来的にライバル関係になるモノレールの敷設計画に対して、あまり良い感情を抱いていなかったことが記録からうかがえる。それは当然であろう。
トピック 権利金5,000万円は高いか安いか
日本エアウェイは京急電鉄に、京急道路使用に対する権利金として、5,000万円(※)を支払った。これが高かったのか、安かったのか、当時、その評価は分かれたという。
路線の大部分を京急道路上に建設させてもらい、用地取得費を大幅に軽減できたことに加え、支柱や軌道桁など巨大な構造物の部品を運搬したり、長大な土建機械類を持ち込んだりするのは、この京急道路がなければ、かなりの困難を伴ったはずである。従って、5,000万円は相当に安い買い物だったはずなのであるが、当時は日本エアウェイ陣営内にも、これを高いという意見があり、逆に京急側では5,000万円もよく出したものだと考えた模様である。
また、当時の小田急の安藤楢六(ならろく)社長は、1966年1月24日に往訪した村岡常務に対して、「先日、京急の佐藤社長にも言ったことだが、5,000万円も権利金を取っておきながら下にバスを通すのはどうか。モノレールを成立させるためにはバスを止めてしまったらどうかと思う。その位の協力が京急になくてはモノレールの経営は難しいのではないか」と述べたという。
しかし、時間が経ち、モノレール建設計画が外部にも知られるようになり、地価が高騰すると、京急内部でも、「これはあまりに安かった」と、組合などから批判が出たという。
※ 1965(昭和40)年当時の大卒初任給は、21,600円(経営研究センターJC 「経済年表」による)