湘南モノレールの敷設免許申請に当たり、競争路線となる江ノ島電鉄および、その親会社である小田急電鉄に話を通したところ、小田急電鉄専務の渋谷氏(当時)は、「小田急としては、モノレール建設はそれだけ遊覧客を多く誘致するものだから大いに歓迎しさえすれ、拒否すべき理由はない」との意向を示されたという。
しかし、ここで解決しておかなければならない問題が発生した。モノレール建設計画のメインスポンサーである三菱グループ内に、モノレール計画推進反対の空気が蔓延し始めたのである。当時の三菱内部の様子について、三菱商事出身で日本エアウェイ常務(後に湘南モノレール専務)を務めた村岡智勝氏の手記『湘南モノレール 設営の記録』(1971年発行。以下、『設営の記録』)には、以下のように記されている。
主たるスポンサー三菱重工にしても三菱商事にしても、また三菱電機にしてもその最高首脳部を始め担当部局、殊に経理担当役員の大部分は本計画(筆者注:湘南モノレール建設計画)に対してはむしろ否定的であった。それらの人々の根本的な反対論の一つは、三菱グループは交通事業にはズブの素人であり、それは矢張り交通の専門家に任せるべきであるということであった。
この三菱グループ内のモノレール反対派の論拠は、客観的に評価するならば、全くもって健全と言うべきであろう。交通事業に携わったことのない素人集団のみで鉄道の運営を行うなどというのは、土台無理な話なのであり、何らかの支援が必要なのは明らかであった。
東京モノレールを例として見るならば、同社は、犬山モノレール(名鉄モンキーパークモノレール)建設を通じて日立製作所と付き合いのあった名古屋鉄道からの出向職員による運営支援を受けており、「開業直前の39年8月にはその数は89名に達し、これは東京モノレール全従業員の約30%」(日立運輸東京モノレール社史)にも上ったという。
湯の華アイランド(可児市)に保存されている犬山モノレールの車両(撮影:岩田武)
さて、湘南モノレールの場合、差し当たって頼れるのは京急電鉄ということになるが、当時の三菱グループ首脳部の考えは、以下のようなものだったと『設営の記録』に記されている。
三菱三社として当時最も希望したのは、京浜急行が今度の企業(筆者注:湘南モノレール㈱)の主体となり、三社はエアウェイ社を通じてモノレール施設を販売するという最も安易な形に持って行けないかということであった。
つまり、三菱グループ首脳部の本音としては、モノレールは商品として電鉄会社に売れればよく、三菱グループ自身がモノレールの経営に手を出すなどということは、できれば避けたかったのである。
だが、当時も今もそうだが、ほとんどの電鉄各社の実態を見れば、本業の鉄道事業だけで経営を成り立たせるのは困難なのであり、観光や流通、沿線開発などの付帯事業込みで、ようやく成立しているのである。従って、電鉄会社が自ら進んで、モノレールなどという未知のものの経営主体になるなどというのは考えづらく、この点は、京急電鉄にしても全く同じはずであった。
このように、三菱首脳部の思惑と電鉄会社の実態との板挟みの状態に置かれたモノレール推進派は、なんとか妥協点を探ろうとした。