このようにモノレール技術が、にわかに百花繚乱(りょうらん)とも言える状況となると、当然のことながら各陣営間での客引き合戦が始まった。
先陣を切ったのは東芝で、1961年7月に奈良ドリームランド線を開業させている。この路線は、名目上は遊園地内の遊戯施設扱いであり地方鉄道法によるものではなかったが、延長846mの円周軌道上を最高速度40kmで走るという実用レベルに達したものだった。
続いて、日立製作所のアルヴェーグ式が1962年3月に犬山遊園モノレールを開業している。このモノレールは珍しさもあり、開業翌月の4月には26万人もの乗客を運ぶなど、大盛況だったという。
江の島海上路線の完成予想図
これら跨座型陣営に対抗する動きとして日本エアウェイは、江の島島内と片瀬西浜(現・新江ノ島水族館付近)を結ぶ約770mのモノレール路線(江の島海上路線)の設営を目指したが、当時の神奈川県知事と島民の猛反対に遭って頓挫(とんざ)した。
次いで日本エアウェイは、1964年2月8日に、名古屋市の東山動物園と植物園前を結ぶモノレールを開業させている。このモノレールは、日本におけるサフェージュ式懸垂型モノレールの第1号となったものの、路線がわずか471mと短すぎ、転轍機(てんてつき=ポイント)の設備がなく、こう配や曲線もほとんどないために、サフェージュ式の技術的優越性を示すことができなかった。
東山動物園モノレール
その後も日本エアウェイは、姫路モノレール、向ヶ丘遊園モノレール、横浜ドリームランドモノレールなど、各地のモノレール計画の引合いに参加したが、いずれも敗退している(姫路と向ヶ丘遊園はロッキード式、横浜ドリームランドは東芝式が採用された)。
その間に、日立陣営は、1964年10月10日の東京オリンピック開幕に間に合わせるために、急ピッチで東京モノレール(浜松町―羽田)を建設し、同年9月17日に開業させた。この東京モノレールの開業は、それまで遊園地の乗り物、または遊園地へのアクセスが主な用途だったモノレールが、ついに本格的な都市交通としてデビューした瞬間だった。