片瀬山駅付近
湘南モノレールには、名称に山がつく駅が二箇所もある。片瀬山駅と目白山下駅だ。
なぜ海や川に近い所によくある「瀬」という文字が、山の名前に入っているのか、目白山下の「目白」とはいったいなんなのか、東京の目白と関係あるのか。
謎が多いこれらの駅名について、今回は考えてみたい。
「片瀬山駅」はどんなところにあるのか
湘南モノレールは、湘南という名称のイメージのためか、海の近くを走っているようなきがするかもしれない。
しかし、その実は海の近くを走るというよりも、山や谷のような場所を登ったり降りたりしながら走っている場所がおおい。
山のつく駅のひとつ、片瀬山駅の所在地は、鎌倉市西鎌倉だが、住所としての「片瀬山」は、藤沢市の方にある。
鎌倉市西鎌倉にある片瀬山駅
片瀬山駅のすぐ近くに鎌倉市と藤沢市の市境が存在し、藤沢市の方に片瀬山一丁目から五丁目の住宅地が広がっている。
片瀬山という住所の住宅街は藤沢市にある
ところで、片瀬山とういう山はあるのか、あるとすればいったいどこなのか。駅から上り坂になっている道をすこし登ってみる。
モノレールのレールがめちゃめちゃ近い
山道のピークとおぼしき場所からは、鎌倉の海が見通せる場所があり、ながめがよい。
腰越、小動方面の海が見通せる
ちなみに、この道の崖下には住宅地が広がっているが、昔はこのふもとあたりまで海が入り込んできていた。そのため、港を表す古語である「津」の文字が入った「津村」という地名がついている。
鎌倉市と藤沢市の市境あたり
このあたりが片瀬山なのだろうか。「山の頂上」という雰囲気はまったくない。昔の地図をみてみる。
1900年ごろの地図。現在、矢印のあたりに片瀬山駅がある
密度の濃い等高線が入り乱れている。標高は、概ね60メートルほどで、山としての高さはそんなに高くないかもしれないが、斜面が急であり、もちろん人が住んでいるような気配はない。具体的に「ここが片瀬山」ということは書いてないので、どこがその山なのか、やはりわからない。
同じ場所の、1960年代の地図を見てみると、住宅街の道路が敷かれ、現在の片瀬山の住宅街が造成され始めているのがみてとれる。
かなり大きな住宅街が形成されはじめている
1987年に藤沢市が発行した『藤沢の地名』(日本地名研究所)には、片瀬山についてこう書かれている。
"片瀬丘陵は標高約60メートルで、現在、片瀬山あるいは目白山と呼ばれる住宅地となっています。宅地化される以前は、北から駒立山、赤山、竜口山まで杉や松のうっそうとした山が続き、市内における横穴古墳群のもっとも多く集中している地域でした(中略)駒立山は物見山、馬立山ともよばれ、日本武尊が東征の時、物見をしたとか、新田義貞が鎌倉攻めの時、ここに馬揃いをさせたとかいう伝承が残っています。"『藤沢の地名』P74
つまり、片瀬山という一つの山があったわけではなく、片瀬丘陵の中に、駒立山(物見山、馬立山)、赤山、竜口山といわれた山がいくつかあり、それの総称が「片瀬山」だったと思われる。
この片瀬山の片瀬のルーツは、もちろん片瀬村でまちがいないだろう。片瀬村とは、現在の藤沢市のもととなった村のひとつで、奈良時代からある地名だ。方瀬、固瀬などとも書かれ、天保時代に作られた相模国の絵図にも「片瀬村」とみえる。
片瀬村と書かれた古地図
片瀬村は、1889年、江島村(現在の江の島)と合併し、川口村となるものの、1933年、町制施行に伴い、片瀬町となる。そして、1947年、藤沢市に編入合併され、片瀬町は消滅する。現在は、藤沢市の片瀬地区がそれにあたる。
この「片瀬」について考えてみる。そもそも瀬とはなんなのか。『言海』には。
"せ(名)[迫(セ)ト通ズルカ]川ナドノ、水淺ク洲ノ上ヲ流レ、人ノ渉リナドスル處。(淵ニ対ス)"
とある。
一般的には、石ころや砂利などが多い、川の浅い場所のことを瀬という。
各種地名事典などで「カタセ」について調べてみる。
"川瀬の一方が小高くなっているところをいう"
『日本地名事典』(新人物往来社)
"鎌倉幕府の西の防衛として固瀬と名付けられたという「防衛海岸」の意"
山中襄太『地名語源辞典』(校倉書房)
などの説があった。
固瀬が防衛海岸という意味という説は、おもしろいし、片瀬川(境川)はたしかに鎌倉の西を守る防衛の要ではあるものの「カタセ」の地名は奈良時代からあったことを考えると、よくある民間伝承の語源だろう。
ここで注目したいのは「川瀬の一方が小高くなっている」という地形由来の説だ。
片瀬川(境川)の形をみてみると、河口に向かって大きく湾曲している。
大きく湾曲する片瀬川(境川)
ここで、小学校5年生の理科の「川の流れとそのはたらき」という単元をを思い出してほしい。
『新板たのしい理科5年』大日本図書(平成28年)
教科書では、湾曲した川の内側は、石や砂利がつもり、浅瀬になりやすいということを習ったとおもう。そこで、川口村時代の古い地図をみてみる。
赤く丸で囲った部分が小高い丘になっている。青い丸の部分が「片瀬村」の集落
片瀬村の集落の西側に小高い丘があり、さらにその先の川べりは農地となっている。川を超えた先は荒れ地だ。この小高い部分が「川瀬の一方が小高くなっている」片瀬、ということではないか。
そんな片瀬がある村を「片瀬の村」と呼ぶのは自然な流れだし、さらにその片瀬村の後背地に広がる丘陵を「片瀬山」とするのも納得できる。これが「片瀬山」の語源でまちがいないだろう。
目白山下の目白とはなにか
さて、片瀬山の語源については、地形が由来である、ということでよいだろう。しかし、そんなにあっさりと語源がわからない問題児が「目白山下」である。
目白山の下。目白山下駅
目白山というのは、現在の湘南白百合学園中学・高等学校があるあたりのことをいうらしい。藤沢市の町名として「片瀬目白山」という地名がそこに残っている。
片瀬目白山は藤沢市になる
湘南白百合学園中学・高等学校のあるあたりは、うっそうとした雑木林が残っており、往時の雰囲気を彷彿とさせる。
左が湘南白百合学園、右側が目白山
さて、目白の語源をさぐってみよう。
目白というと、山手線の目白駅がすぐに思い浮かぶ。東京の目白は五色不動のひとつである「目白不動」が由来であるという説がある。
不動尊といえば、密教寺院だろう。目白山周辺にある寺院を調べてみると、密蔵寺、泉蔵寺という寺院が、密教系ということがわかったが、とくに五色不動の信仰とはあまり関係ないようだ。
目白山からすこし南に行った竜口山周辺にも寺院はたくさんあるものの、こちらは、ほとんどが日蓮宗の寺院であり、こちらも、五色不動の信仰と関係は薄い。
不動信仰とはあまり関係がない本蓮寺
地名に「目白」と名付けるほどその地域で信仰されているものであれば、もう少し情報があってもよいはずだが、目白山と不動信仰を結びつける情報がなさすぎる。
基本に立ち返り、文献を探してみる。ここで、さきほども出てきた『藤沢の地名』を調べると、かなり有力な説が書いてあった。
"目白山という地名は、大正末期から昭和初期にかけてこの地域が開発された時に付けられたもので、この付近にメジロがたくさん生息していたことから付けられました。
目白山と言われる前は、ここはムジナ(タヌキ)が棲んでいたことから狢ヶ谷(むじながや)あるいはモジナンデーと呼ばれていました。
狢ヶ谷は小字名にもなっていますが、開発によって山は切り崩され、かつては谷であったところは埋め立てられてしまい、モジナンデーの面影はなくなってしまいました。"
『藤沢の地名』(日本地名研究所)1987年
「目白山」は鳥のメジロが語源だった。埋立地にみなとみらいと名付けたり、雑木林を造成して青葉台と名付けたりするような類の、開発地の地名だった可能性が高まった。
たしかに、開発して土地を売り出そうと考えた場合「タヌキ山」「ムジナ山」よりも「メジロ山」の方がなんとなく、イメージはよい。
川口村時代の地図をみてみると、たしかに大字として「狢ヶ谷」が載っている。
矢印の先が「狢ヶ谷(むじながや)」(この地図は、90度傾いており、右が北、左が南(江ノ島方面)、上に片瀬川が流れている)
藤沢の地元に住む人々の昔話を、藤沢市の図書館が集め、編纂した『わが住む里』44号(1993年)という冊子がある。そこには、昭和初期にはすでに目白山といわれる山があり、その名のとおりメジロがたくさん棲んでいたという。地元の人が、鳥黐(とりもち)でメジロをつかまえ飼育したり、売ったりしていたという話が載っている。
目白山が、鳥のメジロからきているという説はたしかに有力ではあるものの、誰が命名したのかについては、まったくわからない。
「開発」というのはいったいどんな開発だったのだろうか。
昭和期の地図を確認してみると、現在の片瀬山あたりにかなり大きく「ゴルフ場」とあり、その下の目白山山頂付近に小さな建物が建っているのが見える。
1944年〜1954年ごろの地図
前出の『わが住む里』第41号(1990年)によると、このゴルフ場は昭和20年ごろにでき、さらにその近くに海の見えるホテルが建設されたとある。山頂に一軒だけ見える建物は、おそらくホテルだろう。
このゴルフ場とホテルは「株屋の佐藤氏、俗称牛ちゃん」が造ったといわれている。株屋の佐藤氏とは、相場師として知られた佐藤和三郎のことで、獅子文六の小説『大番』のモデルとなった人物のことだ。
また、それよりさらに前、昭和10年代は、京浜急行電鉄が、バス専用道路を造っている。(ちなみに、この道路が、のちの湘南モノレールの建設に繋がっていく)
大正時代〜昭和初期の「開発」が、このゴルフ場やホテル、道路などの開発を指しているのかどうかは定かではないが、その時代から、片瀬丘陵の山々は開発が進んでいたということはわかる。
いずれにせよ、目白山の語源は鳥のメジロであり、大正時代ごろに名付けられた。ということは確実だろう。