湘南モノレール「湘南江の島駅」からモノレールに乗車し、隣の「目白山下駅」に移動する。
現在、龍口山に登る入り口は、この駅の脇にある一カ所だけである。
木立が空を覆い、やや薄暗くなった坂道を上っていく。
カーブ、分かれ道、行き止まり。つぎつぎとあらわれる段差。
茂る木々に遮られ、見通しも悪い。
「なんかわかんなくって」
山上で唯一視界に入っていた年配の男性が、おそらく心ならずの何度目かのすれ違いざまに照れくさそうに言った。
ここは初めてなのだろう。
迷路を進むような感覚の原因は、整地された山の形状にある。
この航空写真は遊園地閉園後に撮影されたものだが、山上が利用されていた当時の地形をまだ見ることができる。
(昭和21年撮影。国土地理院)
写真を加工したもの。
(昭和21年撮影の航空写真を加工。国土地理院)
オレンジ色で囲った部分が遊園地の敷地だ。
山の西側から北側の木が伐採され、展望台があった最も標高の高い敷地を軸に、扇型が二段重なるように整地されている。
敷地内全体にみえる白く薄い線も段差である。
現在公園となっている山上には、これらカーブの多い段差が形を崩しながらも残り、その段差に沿って進んだり上り下りする動線となっているため、視界の悪さも重なり方向を見失いがちなのだ。
さて、新たに見つかった絵葉書3枚目は、展望台から北方向に遊園地を見下ろしたもの。
(加工した航空写真に示した、矢印①方向)
山上の疑問が解けた喜びと、現状とのあまりの違いに絶句した写真だ。
手前中心部に、小さく「氷」ののぼりが見える。季節は夏のようだ。(横浜開港資料館所蔵)
樹木が伐採され、敷地が整然と整えられている。
はるか遠方まで見通せるこの高台には、風が心地よく吹き抜けただろう。
入り口の演芸案内や音楽コンサートの記録から、園内に「舞台」の存在がうかがえるのだが、右奥上部、長椅子のようなものが複数置かれた場所は、その一つだったかもしれない。
写真には、当時、多くの遊園地で導入されていた機械的な遊具は見当たらず、第二章で推定したとおり、ここは現在の「遊園地」という言葉からイメージされるものより、「公園」に近い施設だったようだ。
同じ敷地を反対の北側から写したのが次の写真。
園の中心部が段差で構成されている様子がはっきりと見てとれる。
- 花壇や水鳥小屋のある一段目(最下部)
- ブランコや滑り台などが横一列に並んだ二段目
- 展望台のある三段目(最上段)
(横浜開港資料館所蔵)
縦長につくられた花壇の中央部で、花盛りなのはひまわりだろう。
その奥、三角屋根の小屋は水鳥小屋である。当時、多くの遊園地には動物園が併設されていた。
小屋の足元にうつる二羽の大きな鳥のシルエット(一羽は羽をひろげている)は、ペリカンではないだろうか。
さらに展望台に近づいた写真。
旗がひらめき、いかにも遊園地的な光景だが、硬い表情の子供も多く、やや緊張感ただよう雰囲気となっている。
有料の施設に子供ばかりというのも不自然で、撮影のために集められたのかもしれない。
展望台にも人影が(横浜開港資料館所蔵)
ところで、これらの絵葉書に使用されているのはみな白黒写真なのだが、実際のところ建造物はどんな色をしていたのだろう。
そのヒントが、近現代日本文学界を代表する作家 川端康成の作品の中にあった。
龍口園開園直後の昭和2年後半、まだ若き川端が自身初の長期新聞連載小説の中で龍口園にふれているのだ。(当時28歳)
園が登場するのは、主人公一行が、藤沢駅から江ノ電に乗り、片瀬の燈籠流しを見に行く場面である。
「高砂、川袋、藤ヶ谷 ― 藤ヶ谷で松林が広い葭原(よしはら)に開けて、明るい眺めを海鳥が飛んだ。鵠沼、新屋敷、濱須賀、そして江の島龍口園の朱塗りの塔が月のない空に伸び上つて見えた。
初めての人はこの俗惡な塔を江の島の社か寺かのものと思ひちがひする。」
(『海の火祭』昭和2年8月~12月「中外商業新報(現在の日本経済新聞)」に連載)
当時は高い建物が少なく、電車からは(現在の「湘南海岸公園駅」を過ぎたあたりと推定)、地上に立つ巨大なエレベーターと山上の展望台が同時に見えていただろう。
「塔」という表現と、エレベーターが山を背にして立つことを考えると、「空に伸び上がってみえた朱塗りの塔」は山上の展望台を指すと思われる。
文学作品内での「朱塗り」という表現が実際と同一のものかの判断は難しいが、展望台もエレベーターも外観に寺院的モチーフが使用されていることを考えると、寺社でよくみられる「朱色(赤色)」がつかわれていた可能性は高いように思う。
(ちなみに、白黒写真をカラー化するアプリを試してみたが、残念ながら色は再現できなかった。)
それにしても、「俗悪な塔」とは、あまりの言われようである。
後に、「日本人の心の精髄を優れた感受性をもって表現した」と称賛された彼の美意識は、丘の上にそびえたつ「寺社っぽい建造物」を激しく拒否したのだろうか...
では、新たに見つけた絵葉書の最後の一枚がこちら。
展望台から西の方向を見下ろしている。(加工済航空写真の矢印②方向)
眼下に大きく広がる片瀬の町。
遠くには、白波の海岸線と雪を頂く富士山。
そして、山上には馬がいた。
ぽこりぽこりと、のんびりした足音が聞こえるようだ(横浜開港資料館所蔵)
ここを馬が歩いていた
霞の向こう側
新たな絵葉書発見に歓喜したのとちょうど同じころ、
龍口園の経営者 森辨治郎を追悼する寄稿集を手に入れた。
しかし、彼の業績がこまかくしるされた年譜に「龍口園」の文字はない。
編纂した息子の健吉は、辨治郎の死後、龍口園敷地の地上権を引き継いでおり、その存在を知らないはずはないというのに...
絵葉書が、木々にのみこまれた遊園地の記憶を取り戻してくれた。
謎はまだまだあるけれど、まぼろしは形を持ち始めている。
時の霞が晴れる日は、もう近くまできていると思う。
(転載不可)
*「龍口園」について詳しく知りたい方は、こちらをご覧ください。
『新月夜ノート』http://sinngetsuyo.livedoor.blog/