湘南モノレールの駅名から、地名をたどる旅。今回は西鎌倉について考えてみたい。
鎌倉の西だから「西鎌倉」
「西鎌倉」という地名は、昭和43年(1968年)に誕生した比較的新しい地名だ。現在、住居表示されている一丁目から四丁目までがあり、湘南モノレールの西鎌倉駅は昭和45年(1970年)に開設された。
地図を見れば一目瞭然ではあるが、この西鎌倉という町は、宅地開発された住宅地だ。
西鎌倉周辺
西武鉄道が宅地開発を行う1950年ごろより前は、ただの山林であった。
むかしの西鎌倉
地図をみても、違いすぎて別の場所のようにも見えるが、右上に見える手広の集落などが、かろうじて一致しているところから、その変貌の激しさが感じとれるかもしれない。
さて、この「西鎌倉」という地名は、ここが宅地開発されたさい西武鉄道が命名したといわれている。鎌倉の西にあるので西鎌倉、そのままである。ブランド力のある地名を借用し、新造の住宅地の価値を高めるという手法だろう。
この連載では、駅名のもととなった地名の由来をたどる......というルールでやっているため、まずはこの「鎌倉」の地名の由来をさぐることとしたい。
豊富すぎる鎌倉の由来
鎌倉といえば、日本初の武家政権である源頼朝の幕府が置かれた地である。日本の中世の一時期を表す代名詞にもなっている地名であるため、知名度の高さは、湘南、江の島など、周辺の他の地名よりも抜きん出た存在と言っていい。したがって、その由来は昔から実にさまざまな説がとなえられてきた。
鎌倉市のホームーページに鎌倉の地名の由来が紹介されているが「主なもの」だけでも、七種類も掲載されている。
せっかくなので、ここに掲載されている由来から、おもしろいものを一つずつ検証してみたいが、その前に「鎌倉」という地名の初出だけ、まず最初に確認しておきたい。
「鎌倉」の史料上での初出は和銅5年(712年)成立の『古事記』中巻「景行天皇」条のなかに「鎌倉之別(かまくらのわけ)」として登場している。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)の系譜を紹介するなかで、その息子、足鏡別王(アシカガミワケ)がおり、その子孫に「鎌倉之別」という一族がいた......という形で登場する。別(ワケ)とは、皇族の子孫で、地方に領地を得た一族に与えられた称号のひとつで、鎌倉之別は当時、鎌倉郡鎌倉郷を支配した一族である。
また、昭和58年(1983年)に綾瀬市の宮久保遺跡から、「鎌倉郡鎌倉里」と記された天平5年(733年)の木簡が出土している。
宮久保遺跡出土木簡・神奈川県教育委員会蔵(綾瀬市ウェブサイトより)
この木簡は「鎌倉郡鎌倉郷の人物が、稲を貢いだ」ということを記しただけの記録だが、鎌倉という文字が記された現存する文献としては最古である。
また、万葉集にも「可麻久良(かまくら)」として歌が詠まれていることから、奈良時代初期には確実に「鎌倉(かまくら)」という地名は使われていたことが推測できる。
死体の山=鎌倉?
さて、いま一度、鎌倉市のホームーページに掲載されている「鎌倉の由来」をみてみたい。
まず、伝説による説として、ひとつめに挙げられているのが、神武天皇の東征伝説による説。
神武天皇が放った毒矢で死んだ人の死体が積み上がった様子を屍蔵(かばねくら)と呼び、それが鎌倉になった......という不気味な説だ。この説は、江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」の鎌倉郡の項でも紹介されている。
『新編相模国風土記稿』村里部 鎌倉郡巻一
神武天皇は、九州の高千穂(宮崎県)から兵を挙げ、奈良盆地周辺で勢力を誇っていた長髄彦(ながすねひこ)を倒し、初代天皇に即位した人物。その存在は、実在したという説から、架空の人物であるという説までさまざまである。
しかし、古事記や日本書紀には、神武天皇が鎌倉まで征伐にきたという話は出てこない。つまりこの時点でこの説は、出所のわからない話であることは確実である。(個人的には、神武天皇ではなく、日本武尊(ヤマトタケル)の話では? という気もしないでもないが、それを裏付ける話はない)
ただし、この説で興味深いのは、古代の人たちが、どこに死体を捨てていたのか、という点だ。
歴史的にみると、仏教の弔いの考え方が一般的に広まる前の日本では、庶民は人の死体を火葬や土葬をせず、さまざまな場所に放置していたのは事実である。芥川龍之介の『羅生門』でも、平安京の端っこに存在していた羅生門が、死体捨場となっていたことを書いている。
また、姥捨山などの説話も、この死体を遺棄していたことを元にした話ではないかと考えられる。
『人を捨てるはなし―葬送について―』(土井卓治)によると、かつては、死体を遺棄するのにふさわしい断崖や洞窟に「往生谷」「地獄谷」「成仏谷」といった地名が付けられることがあったという。
こういった話をみると「屍蔵」説も、信憑性のない説として切り捨てるには惜しい。
もちろん、鎌倉の地名の由来としては違うかもしれないが、死体を放置していた場所が、鎌倉の山のどこかにあったかもしれない......ということを伝える話としては、たいへん興味深いものだ。
藤原鎌足の鎌=鎌倉?
続いての説はこちら。
藤原鎌足(中臣鎌足)は、大化元年(645年)、中大兄皇子とともに、蘇我入鹿を暗殺し、クーデター(乙巳の変)を成功させ、大化の改新を行った人物として知られているが、その藤原鎌足が、鎌倉の語源であるという説だ。
この説は、南北朝時代の僧、由阿(ゆあ)が、その著書『詞林采葉抄』(しりんさいようしょう)に記し、水戸光圀が家臣に編纂を命じた『新編鎌倉志』に採用され、一般的に広まった説だ。
『新編鎌倉志』
藤原鎌足が、鎌槍(穂先に枝刃がついてる槍)を埋めたので「鎌倉」。ダジャレ感が強すぎて思わずわらってしまう。
死体の山説に比べると、ずいぶんのん気な説ではあるが、藤原鎌足と鎌倉は、鎌の字を使っているほかはあまり接点がない。
おそらく、鎌倉幕府の将軍を、三代将軍実朝の死によって頼朝の直系が絶えた後、藤原氏(九条家)から迎えたこと(摂関将軍)から、由阿が思いつたダジャレではないだろうか。
もし、南北朝時代にツィッターがあれば、バズったのちにデマとして叩かれたかもしれない。
鎌倉の由来、諸説紛々
さて、鎌倉の由来、その他の説をざっとみていきたい。
- 昔、鎌倉の海岸近くには蘆(あし)や蒲(がま)がたくさん生えており、蒲が生えているところだから「かまくら」になったといわれています。
- 比叡山にも鎌倉という地名があり、「神倉」(かみくら)とか「神庫」(かみくら)がなまったものと考えられています。ここ鎌倉にも「神庫」があったので、それがなまって「かまくら」になり、鎌倉の字をあてたのだといわれています。
- 神奈川県の中央部に、高座郡(こうざぐん)という地名があります。高座は、昔「たかくら」と読んでいたところから「高倉」「高麗」(こま)に通じ、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったといわれています。
1の「蘆や蒲がたくさん生えていた説」たしかに、鎌倉あたりは湿地帯であったというのは、大船や深沢の項でも触れたが、蒲倉が鎌倉になった......というのは、なぜ蘆倉にならなかったのか、という点など、説としては曖昧ではある。
2の「神倉が訛った説」は、江戸時代の歴史家、黒川春村が、その著書『硯鼠漫筆』で唱えた説だ。
『硯鼠漫筆』黒川春村
鎌倉に「神倉」があった、というのは唐突なようにも思えるが「カミクラ」が「カマクラ」になる経緯を、「鎌倉之別」の祖先として、古事記中巻に登場する、足鏡別王(アシカガミワケ)の鏡(カガミ)の発音から読み解いて「カマクラ」まで結びつけている。言われてみれば確かになるほど、と思える説だが、足鏡別王が、カミクラを経て鎌倉に到達するまで、文字や発音の転訛が何段階もあるので、かなり難解である。
3の「高座郡が鎌倉になった」説。これは「高座」をタカクラと読むことがあることと、相模国高座郡のあたりは、高句麗系の渡来人がやってきて開拓したという伝承があることを結びつけている説だ。高座(タカクラ)が高麗座(コマクラ)になった。と言われれば、ほうほうとなるものの、なぜ鎌倉のあたりだけが「カマクラ(鎌倉)」となったのかは、はっきりしない。
有力な説、地形説
鎌倉の由来で、もっとも有力とされているのが、地形を由来とした説だ。もちろん、鎌倉市のホームーページでも紹介されている。
- 鎌はもともとは「かまど」のことで、倉は「谷」のことだといわれています。鎌倉の地形は、東・西・北の三方が山で、南が海になっています。形は「かまど」のようで、「倉」のように一方が開いているので、「鎌倉」となったといわれています。
- アイヌ語の「カマクラン」という「山を越して行く」という意味の言葉からできたとか、「カーマ・クラ」という「平板(へいばん)な石の山」という意味の言葉からできたとかいわれています。
ちなみに、2のアイヌ語説は、朝鮮語由来説と並んで、地名の由来にはよくあるネタである。周辺にアイヌ語地名があまり残っていないにも関わらず、鎌倉だけがアイヌ語由来となっているのもおかしな話なので、様々な説のひとつ......ぐらいにかんがえておいてよいと思われる。
1の「かまどくら説」は、明治時代に活躍した在野の歴史地理学者、吉田東伍が唱えた説だ。
『大日本地名辞書中巻』吉田東伍
鎌倉の地形はよく言われるよう、三方を山に囲まれ、南が海に面した天然の要害だ。この地形が、ちょうど竈(かまど)のようであり、倉のように出入り口がひとつ(南の海)しかないことから、竈倉(鎌倉)となった。という説である。
鎌倉の地形、三方を山に囲まれ、南の海にしか開けていない
吉田東伍の説はもう少し詳しく見ると「『蘆噉竈見(アシカミ)命、竈口君等の祖』(旧事本紀)とあり、竈口は鎌倉の異名。竈谷(かまくら)の義で、これを古人は竈口(かまくち)とも呼んだ」とある。蘆噉竈見(アシカミ)命は、古事記に登場する足鏡別王のことである。
ここで、黒川春村の神倉説とも少しだけつながってくる。
また、『角川日本地名大辞典』鎌倉郡の項では、「カマが洞穴、クラが岩の意という」とあり、カマもクラも純粋に古語の地形を表す言葉としての語源説を記している。
さらに、カマがかまどで、クラを谷とする説『鎌倉・三浦半島おもしろ地名考』(多摩川新聞社)、カマが、えぐったような崖地という説『鎌倉の地名由来辞典』(東京堂出版)など、地形由来の説は、異同はあるものの、かまどの形になぞらえた崖地と谷をあらわした地名であることは、共通している。
西鎌倉の由来を調べても、西鎌倉の地名の由来にはならない
さて、ここまで、さまざまな鎌倉の由来を調べてきた。しかし、賢明なる読者のみなさまにおかれては、すでにお気づきのことだと思うが、いくら鎌倉の由来を調べても、西鎌倉のその地の由来を調べたことにはならないのだ。西鎌倉という地名は、ただ鎌倉の西という意味しかなく、そこのその土地の歴史や地理を伝える地名ではないのだ。
西鎌倉は、西鎌倉になる前はどんな地名だったのか。昔の地図をみてみよう。
「初沢」、「赤羽根」の地名が見える。西鎌倉の地名の由来を考えるのであれば、むしろこの初沢、赤羽根のルーツを探らなければならないだろう。
次回は、このふたつの地名のルーツを探っていきたいと思う。