地名とはなんだろうか。
その場所を指し示す、ラベルであることはもちろんだが、その土地がいったいどんな土地だったのかを物語る文化遺産、歴史遺産でもあるといえる。
湘南モノレールの駅名となった地名のゆらいを探ってみたい。
大船はなぜ大船になったのか
湘南モノレールの始発駅、大船駅。この駅名の大船は、言わずもがな、周辺の地名「大船」からきている。
現在「大船」は一丁目から六丁目までと、住居表示されていない大船が、東海道本線の東側にひろがる。
この大船という地名、いったいなぜついたのだろうか?
漢字をそのままよみとると「大きな船」といういみになる。
しかし、よくかんがえると、大きな船が入ってくるような場所は大船周辺にはちょっとみあたらない。
大船周辺からいちばん近い海は、おそらく由比ヶ浜のあたりになると思われるが、直線距離で4キロ以上あり、そのうえ、山を超えなければたどり着けない。
JR大船駅の西隣に柏尾川というそこそこ大きな川があるけれど、ただ、この川にしても、船が入ってこれるほどの川かといわれると、ちょっと難しいのではないか。
大船は、なぜ大船になったのか。
「常楽寺」を訪ねて
大船駅から徒歩15分ほどの場所に「常楽寺」という寺がある。
常楽寺
北条泰時が、夫人の母を追福するために建てたと言われる寺だ。北条泰時といえば、御成敗式目を制定した鎌倉幕府三代目執権として、歴史の教科書に登場するのでご存知の方もおおいだろう。
境内は、背に粟船山(あわふねやま)を配し、江戸時代に建てられた木造の仏堂や文殊堂がいくつか建っている。
仏堂
この寺の山号は「粟船山(ぞくせんさん)」という。寺の後ろにある山 ―といっても小高い丘のような場所だが― の名前がゆらいだ。嘉禎三年(1237年)に建立したころは、ただ「粟船御堂」とよばれていたという。この「粟船」というのが、大船のゆらいである......というのが、現在の定説のようだ。
粟船山の山号額
『鎌倉・三浦半島おもしろ地名考』(多摩川新聞社・三浦一男)によると"古くは「粟船」(『吾妻鏡』)または「青船」と書いて「おおふな」と読んでいたという。「大船」と書くようになったのは正保のころ(1644〜48年)からではないかと思われる。"とある。
また『鎌倉市史』(吉川弘文館)によると"(常楽寺の)山号の粟船はアハフナ、大船の古名である"と記されている。
このように、大船の地名のゆらいを記した書物を調べると、こまかな違いはあるものの、いずれも「粟船」が「大船」になった......という説が書かれている。
天保12年(1841年)に編纂された『新編相模國風土記稿』の大船村の項には、大船村の古名であった粟船のゆらいについて次のような話を載せている。
"昔此地瀬海ニシテ。粟ヲ積タル船着岸セシ縁故ニ因リ。粟船村ト唱エシト傳フ。粟船ノ地名ハ。古書ニ往々見エタリ"
つまり、粟を積んだ船が着岸したため、粟船の名がついた......ということらしい。『新編相模國風土記稿』よりもさらにさかのぼって、延宝元年(1673年)に、徳川光圀が編纂した『新編鎌倉志』にはちょっとおもしろい話が載っている。
"此地往時爲海濱(此の地、往時は海濱たり)以載粟船繋于此(粟を載せた船もってこれに繋ぐ)一夕變而化山(一夕で山に変化す)今粟船山是也(今の粟船山がこれなり)其形如船(其の形、船の如し)"(常楽寺の項)
「一夕變而化山」をそのまま素直に解釈すれば、粟を積んだ船が一晩で山に変わった。ということが書いてある。古文書については素人なので、この解釈で合っているのかどうかはわからないけれど、そのとおりなら、ちょっとだけロマンチックな話じゃないか。
新編鎌倉志
ちょっと整理してみよう
さて、ここで少し整理してみたい。
① 大船の地名のゆらいは、もともと「粟船(アハフナ)」という古名があり、それが江戸時代に「大船(オホフナ)」と書かれるようになり、大船となった。
② 粟船は、粟を載せた船が着岸したため、または、粟を載せた船が一晩で山に変化したために、粟船山となった。
③ その粟船山にちなんで常楽寺の山号は命名され、周辺が粟船という地名になった。
という事になるだろうか。以上は、書籍や文献を調べると大抵がそう書いてある。ということである。
しかし、ここで気になるのが次の三点だ。
㋑ 大船周辺に「粟を載せた船が着岸」するほどの水辺があったのか。
㋺ なぜ「粟」を載せた船なのか。船が入れるほどの水辺があったのであれば例えば「船津」みたいな地名でも良かったのではないか? 船にわざわざ粟を冠する理由はなんだったのか?
㋩「アハフナ(あわふな)」が、なぜ「オホフナ(おーふな)」になったのか。確かに「似ている」と強弁されればそういう気になるものの、でも「あわ」と「おー」はずいぶん差があるのでは?
という謎が浮かんでくる。
次回は、この謎を考察してみたい。