暗渠マニアックス 吉村生
■湘南深沢暗渠さんぽ
前回にひきつづき、湘南深沢で暗渠を求めてうろうろしてみよう。
【map】湘南深沢駅付近の暗渠をオープンストリートマップにプロットしたもの
駅周辺に、もう少し探りを入れる。JR工場跡地の横に柏尾川支流の梶原川が流れているが、交差点で途切れている。
【図1】写真右側に広がるのはJR大船工場跡。空き地の隣のガードレールに囲われた箇所に水路があるが、この交差点でプツリ(途切れる箇所を赤色矢印で示した)
ということは、その上流部は暗渠になっているはずだ。つづきをさかのぼってみよう。このつづきは、2通りある。片方は北東方向からくる梶原川支流で、湘南深沢駅直下を通ってやってくる。
【図2】モノレールの湘南深沢駅を湘南町屋方面から見たところ。右手のフェンスの向こうはJR大船工場跡地。駅下のこの緑色の道は、実は暗渠ロードだったのだ。ところどころで暗渠蓋のでこぼこを感じることができる
もう一本は梶原川本流だ。こちらを遡上してみよう。
はじめは、いたってふつうの車道と歩道なのだが、じきに、いかにも暗渠という舗装に変わる。緑色の暗渠蓋が現れ、車道をわたり、コンクリート蓋暗渠に変化(へんげ)する。
【図3】歩道が太くなった。緑色の地面部分が梶原川暗渠。写真奥、緑色の舗装が途切れる地点で、暗渠は道路の反対側へと横断する
暗渠沿いにあるお蕎麦屋さん「赤星」で、席につくと、目の前にこんな写真があった。
【図4】昭和33年の風景。モノレールができる前の湘南深沢駅周辺だ
【図5】その写真に、駅下を流れる梶原川支流と、合流先の梶原川本流を描き加えてみた。よく見ると写真内でも溝を確認できる
赤いラインは筆者が追加した。こんなふうに、梶原川とその支流は流れていた。古写真との出会いに、なんだか導かれたような気持ち。さあ、勢いづいて本流をさかのぼっていこう。
【図6】ガードレールの左側、暗渠の蓋が描く曲線のうつくしさ
写真左手後方に山があるので、その前を仕方なく道は曲がってゆく。コンクリート蓋も、合わせて弧を描く。
【図7】地形に沿って曲線がつづく
このように、コンクリート蓋暗渠が弧を描く地点は、なぜだかどうしても心惹かれてしまう。ゴトゴトという感触も心地よい。その先、蓋暗渠はツツツ...と深沢小学校の敷地に入ってゆく。
【図8】小川の上にコンクリートの蓋をかけた暗渠。奥は深沢小学校の敷地
残念、一旦追うことをあきらめなければならない。だが、見えない部分はどうなっているか、妄想しながら歩くこともおもしろいものだ。次に出会う瞬間を心待ちにしながら。
迂回しつつ、深沢小学校前を流れる新川を眺める。このあたりは、かつてはいちめんの田んぼと用水路だった。梶原川は水量も豊富で中心的な川だったが、昭和15年に用水路として新川が開削されると、そちらにメインを張られるようになり、ずいぶんと短く細い流れになってしまった。 深沢小学校付近は梶原川に新川、大塚川と3本並行して川が流れていたが、そのほかにも細かく用水路があった。深沢小学校の前にも新川に注ぐ用水があり、なきっつら橋(なきんづら橋)が架けられていた。このかわいらしい橋名は昔の伝承からきていて、仲の良い兄弟が別れ別れに住まねばならなくなり、この橋のたもとで泣いていたからだという。
【図9】昭和36年の航空写真(国土地理院)。当時の主要な水路を水色でプロット。なきっつら橋の推定箇所を赤破線で示した
なきっつら橋の架かっていた用水路はとうに埋められ、メガネスーパー裏側の、ただの地面になっている。水路の名残はおろか、橋の跡もわからない。
【図10】なきっつら橋が架けられていた用水路の推定位置
さて、追ってきた暗渠のつづきを迎えに行くと、深沢小学校の門の横からコンクリート蓋暗渠が伸びてきた。上流側なので、少しだけ細い。
【図11】小学校の門から出てくる暗渠を迎え撃つ。写真右手は御霊神社、荻窪圭さんの記事参照
深沢小学校の校内ではかつて川がさらさらと流れ、橋などもあって面白かった、と地元の人がいう。
その上流、すぐに、開渠が一本合流してくる。
【図12】支流。水色のガードレールの向こうに水路があり、手前の暗渠に合流している。のぞきこむと透明な水が流れていた
湧水が流れていた。さかのぼると、自噴井戸もあった。
【図13】支流をさかのぼるという動機がなければ出会えなかったであろう。隠れた場所にある自噴井戸。
だが、交差点のところで、暗渠らしい蓋は唐突に止まっていた。
【図14】交差点の左手にはモリっとした斜面が迫ってきていて、奥に深沢中学校がある
道は続いているのに、なぜだろう。その理由は、過去の航空写真と郷土史を見ると明らかになる。現在深沢中学校のある場所は、かつて「大工谷戸」(小字名は大工谷)という谷だった。
【図15】昭和36年の航空写真(国土地理院)。赤破線で囲ったところが大工谷戸
【図16】昭和49年の航空写真(国土地理院)。大工谷戸のあったところに中学校が建っている。東側の山が削られ宅地になっているから、削った土を大工谷戸に盛ったのだろう
なぜ、大工なのか?中世の頃、この谷に大慶寺などを修復した大工が多く住んでいたからだという。昭和36年の航空写真を見てみれば、くっきりとした谷があり、棚田が確認できる。そこに盛り土をし、現在はむしろ丘になっている。
蓋が途切れていた場所は、大工谷戸からの流路が消えてしまったいま、残された梶原川のはじまりの場所だった、というわけだ。大工がたくさん住んでいたころのこの谷戸にはきっと、住居と家族と生業があった。かれらの使った生活排水も、この水路を流れていたに違いない。
【図17】昭和28年頃の大工谷戸を下流側から見た写真。「深沢中学校開校50周年記念誌」より
現在の見た目からはわからない、盛土の下に眠る幻の谷戸。大工谷戸からの流れを、中世を感じながら歩く。湘南深沢の駅前からのびる、くねくねとした暗渠みちには、そんなロマンも詰まっている。
■湘南深沢駅付近の暗渠的魅力
湘南深沢のうち、駅周辺を中心に紹介した。裏鎌倉は、人ごみにまみれずにゆったりと楽しめる大人の散策路といえるだろう。住宅地と道路の向こう側に、のどかな田園風景があったことを、暗渠は教えてくれる。しかし裏鎌倉の底力はそれに止まらない。中世のひとびとの営みが、田園風景のさらに奥に隠れている。暗渠の蓋の下を、幾層にもわたって想像できる世界がある。ただの住宅地から気づけば中世にまでトリップしていることが、湘南深沢の魅力ではないだろうか。