「昔、庚申待(こうしんまち)という行事がありました。人間の体の中には三尸(さんし)の虫と呼ばれるモノがいて、いつも人の行動を監視している。三尸の虫は庚申の晩、人が寝ている間に天に昇って、その人の日頃の行いを神に告げるんです。報告次第では寿命が縮められてしまう。それを阻止するために人々は庚申の晩に集まって、祈ったり酒盛りをしたりして徹夜をした。これが庚申待という行事です。徹夜をすることで、寿命が延びる。つまり一年三百六十五日ずっと規則正しく同じリズムで生活するより、たまに徹夜をしてわざとリズムを崩し、次の日からまた規則正しい生活に戻るほうが、絶対に健康にいいんですよ。ずっと同じリズムで生活すると、気づかないうちにストレスが溜まっていく。たまに徹夜をすればそれでリセットされて、活力を得られ、生活を再起動できる。ゆえに、ときどき徹夜をするのは健康にいいというのが私の持論です」
すっかり暮れた江の島御岩屋道(おいわやみち)通りの石段手前、群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)の前に立ち、中野純氏はこう語った。
後ろでは、私とツアーの常連さんが「個人の感想です」などと忍び笑っていたけれど、あながち嘘ではないだろう。
中野氏と私加門七海がなんとなく始めた「怪談闇歩き」は、年に一二回、気が向いたときにやるというだらだらさ加減ながら、もう七回も続いている。
怪談闇歩きというのは、さまざまな夜を歩きつつ、歴史や伝説、少し怖い話をしたり、闇の中で遊んだりするツアー。心霊スポット巡りでもないし、怪談語りのプロもなく、これまただらだらしているのだが、それでも人は集まってくれる。
理由はやはり、夜闇を歩くという非日常を体験できるからに違いない。
庚申待の徹夜もまた、非日常の空間だ。
常の世界では、せいぜい私的な行為に過ぎない夜明かしに、公の大義名分を与えて愉しむことこそが、正常な日常をリセットする。
ついでではダメ。徹夜そのものを目的とするのが重要だ。
寺山修司も言っている。
「闇はつねにアナーキーである。」
怪談闇歩きならば、夜の中を団体で歩き、語り、お弁当を食べる。
はたから見れば、闇を愉しむ我々こそが百鬼夜行(ひゃっきやこう)に見えるという、その逸脱が大切なのだ。
行楽客で賑わう夏の江の島も、夜はほとんど、ひと気がない。
七月十八日の夕刻、我々は湘南モノレール「湘南江の島駅」に集合した。
風の通る五階のルーフテラスから見晴らす景色も清々しい。
今日という日に決めたのは、満月に近い十六夜(いざよい)だったからにほかならない。しかし、天気は生憎(あいにく)の曇り。梅雨が明けてなかったこともあり、雨が降り出す心配もあった。
「月が拝めるといいよねえ」
そんなことを話しつつ、私たちはまず龍口寺に向かった。
総勢二十名と少し。今回は作家の宮田珠己さんも同行し、常連初参加取り混ぜての道中だ。
コースは龍口寺(りゅうこうじ)に寄って江の島に渡り、まずは西浦港へ。そこから浜を上がって杉山和一(すぎやまわいち)の墓がある西浦霊園、冒頭に語った庚申塔から江島神社奧津宮(おくつみや)。山二つの風を浴び、中津宮(なかつみや)から児玉神社(こだまじんじゃ)、そうして民家の間を縫って海辺から聖天島へと巡る。
ツアータイトルは「加門七海+中野純の江の島"そこ行く?"ムーンライズウォーク」。代表的な観光地をほとんど無視して「そこ行く?」という場所ばかりが選ばれている。
駅から江の島弁天橋に至る道すら、メインストリートを嫌って境川沿いを歩くのだ。江の島初上陸の参加者にははなはだ気の毒なコースだが、我々の目的は「観光」ならぬ「観闇」、そして怪談にある。キトキトのお魚が食べられずとも、文句を言う人はいない。
大体、店はほぼ閉まる時間だ。最初に訪れた龍口寺も既に本堂の扉は閉ざされていた。