龍口園と日本初の自動車専用道路
遊園地「龍口園」は、後に湘南モノレールの軌道が敷設されることになる日本初の自動車専用道路(大船~片瀬間。昭和5年開通)とつながりがあったようだ。
道路は、高級住宅地「鎌倉山」の開発で知られる実業家 菅原通済(すがわらつうさい)によって完成されたのだが、もともとは大正15年(1926)に、森辨治郎(もりべんじろう、海運業に名を残す実業家)という人物により申請され、許可が下りた計画が、後に通済に託されたもの。
森辨治郎は、龍口園の開業・経営のために興された「湘南興業株式會社」の中心人物だった。
道路の申請と龍口園開園の日付は極めて近く(申請翌年に開園)、両者は江の島方面への観光客を目当てに、一体の計画として発案されていた可能性がある。
道路の完成間近に通済が龍口園の役員となり、園の土地がその敷設に利用されたことも、両者の密接な関係を物語っているだろう。
「旧大船片瀬間自動車専用道路」 片瀬側出口。背後が龍口山
龍口園の施設
当時の資料によれば
- 屋外エレベーター(高さ約50メートル(写真より推定))および山上連絡橋
- 6階建の展望台
- 滝、池、温室、花園、小動物園(水鳥・猿・小鳥)
- 滑り台、ブランコ、運動場
- 貸席、食堂、売店
などがあったことがうかがえる。
機械的な遊具はなく、現代の「遊園地」という言葉から連想する施設よりもおとなしいものだったようだ。
龍口園入口(現 常立寺の南側ならび)
来園者用屋外エレベーター。常立寺~湘南モノレール「湘南江の島駅」間の斜面に設置された。
(上記2点「片瀬写真館撮影・制作」片瀬写真館の許可なく、転載・転用および複写することを禁止します)
エレベーターから遊園地へと連絡橋をわたった。
(藤沢市教育委員会 提供)
6階建の展望台。夜間点灯し鎌倉山からも見えたという。
手前の温室のようなものは水鳥小屋。
展望台からは、江の島が目の前にみえた。
(上記2点「片瀬写真館撮影・制作」片瀬写真館の許可なく、転載・転用および複写することを禁止します)
当時日本一の高さを誇ったというエレベーター。
製造した会社を知りたいと調べてみたのだが、残念ながらわからなかった。
昭和の初め、それまで主流だった外国製(主に米国オーチス社)からようやく国産エレベーターが本格的に普及し始めたころの話であり、90年近くたった今、すでに存在しない会社が多い。
問い合わせができた先にも、記録は残っていなかった。
ちなみに、日本初の屋外エレベーターは、明治43年(1910)、和歌山県の名勝地 和歌の浦をのぞむ奠供山(てんぐやま)のふもとに建てられたもの。
当地を講演で訪れていた夏目漱石が実際に乗り、
「無風流な装置には違いないが、浅草にもまだない新しさが自分の注意を惹いていた」と、 小説『行人』に記している。
漱石が乗った日本初の屋外エレベーター。
地元の旅館「望海楼」が客寄せにと建設した。
短かった営業期間
龍口園が開園した江の島・片瀬地区は、従来の江の島詣でのみならず、「行楽」「観光」が庶民に浸透していく時代に新たなレジャーとしてひろまった「海水浴」の場として全国屈指の人出を誇っていた。
集客には絶好の地ではあったが、東洋一の遊園地とよばれた「鶴見花月園」(現在の横浜市鶴見区にあった)をはじめ、近隣の他の遊園地が遊戯機械を導入していく流れの中で、眺望を魅力の中心に据えた龍口園は、来園者にアピールするものが弱かったようだ。
江の島や周囲の海岸はもともと眺望が開けていたうえ、海水浴を目当てに訪れた人々の足を山にむけさせるのはそもそも難しかったのかもしれない。
開園後しばらくすると人出の途絶えた様子が、当時を知る地元の方々の随筆などに書かれている。
龍口園は昭和2年の開園後、当初の運営会社がその4年後に解散した後も営業を続けた形跡がある。
閉園の正確な日付を示す資料はまだ確認されていないが、地元に残る話や当時の新聞記事から、昭和9年から11年頃の間にその歴史を閉じたと思われる。
解体中のエレベーター。すでに上部がない。
写真内の橋の建設状況から昭和8年以降と推定される。
(絵葉書を一部加工)