道標から分かれる江の島道は実に細い生活道。当時と道幅はあまり変わってないんじゃないかと思えるレベルだ。左手に崖を見ながら道は少しずつのぼっていく。
やがて少し開けた土地に出て、道が2本に分かれる。ここで古地図の登場。明治前期の地図を見ると、右へ向かうのが正解っぽいということでそちらへ。
次の三叉路に出会うが、ここは右手の上り坂を選択。崖下は近代の道だ。
やがて頂点に達してぐぐぐっとバス通りに向かって下りはじめる。
いやいくらなんでも上ってすぐ下るのは道として不自然。
古地図をよく見ると、昔はここは下ってなかったのだ。尾根伝いの道だったのだ。
新しくバス通りを作ったとき、大きく崖を掘ったので、古道が分断されてしまったのである。
現代の地図と明治前期の地図を並べて見た。赤い線が現在でも残っている道。白い四角が失われた道だ。宅地造成と新道の建設で分断されたのがよくわかる。
A地点からぐぐっと左に曲がって坂を下り、新しく切通しで作られたバス通りにいったん下りてるのだ。
仕方が無い、ここはいったん下りて迂回である。バス通りから今歩いてきた道を見上げると、空中にかつて道路だったところがみえてくるではないか。いや見えないんだけど、なんとなくこの新しい道路の上であそこ( A )とあそこ( B )がつながってたんだなあというのがわかる。
○めざせ富士塚
ではB地点を目指していこう。
ちょっと遠回りして、また坂を上る。現代の地図を見ると、住宅地として開発されたエリアのすぐ西に古道そのままのカーブがちょっと残っているのがわかる。そこへは行けそうだ。
するとひときわ高いこんもりした山が描かれている。明治前期の地図だと丸く等高線がある。
これは「富士塚」だ。江戸時代に流行した「富士講」によるミニチュア富士山である。
何もないところに塚を作り、富士山の溶岩を使って築山するパターン、円墳を富士に見立てるパターンがあるが、ここは自然地形を利用して形を整えたものかもしれない。
まずはめざせ富士塚、である。
迷うことなく発見。かなりデカくて目立ってるから。まわりよりひときわ高いぽこんとした山がそうだ。
訪れたのが冬で良かった。雨が降ってて寒かったけど、広葉樹の葉が落ちて、富士塚の形がはっきりわかる。
古墳や富士塚や城址を訪れるのは冬が最適ですな。
富士塚に向かう小さな階段が見える。おそらくそれが古道筋だ。
富士塚に立ち寄ると、江戸時代の石碑が2つ残っている。
ひとつは出羽三山。出羽三山とは山形県にある月山・湯殿山・羽黒山で山岳信仰の聖地として江戸時代に流行したのだ。
その横にある丸い石には「南無仙元大菩薩」と彫られている。これは冨士宮の浅間神社を指す。富士塚に相応しい碑で、富士講の人が建てたものだろう。
さて、問題はこの先。国土地理院の地図によると、富士塚脇の古道は途中までは続いているらしい。確かによくみると道の痕跡が。これは行かねばなりますまい。
と歩いて行くと......富士塚を超えたところで唐突に終わった。だめだったー。国土地理院の地図は正しかった。
奥は崖で、崖下に民家が見える。無理に直進したら民家の庭に落ちて怪我した不審者になってしまう。それはいけない。
この道が使われなくなり、斜面の下が宅地になってしまったのだろう。