13時 30分 江の島に初上陸
「釣りかあ、ずいぶん久しぶりだなあ」とI君はウキウキしている。江の島で釣り、というのは彼のたっての希望だった。
I君は「釣り好き」を公言して憚らないわりに、実は一度しか釣りをしたことがないという男だった。しかもその「一度」は、山形県の秘境、大鳥池に生息するといわれる幻の魚「タキタロウ」を探索にいくというやや特殊な経験である。もともとUMA(ネッシーなどの未確認生物)を愛する彼は、37歳にして菓子パン5個をカバンに詰め込んで5時間かけて山に登り、蚊の大襲来を受けながら竿を振り回し、最終的には5センチほどの小魚一匹をひっかけたのみで家に帰ってきた。それが「釣り好き」の原点にして唯一の体験であった。
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駅からお目当ての「井上つりえさ店」までは徒歩20分。長い桟橋を渡りながら、「江の島かあ、大学生のとき以来だなあ」というI君の声に、私はハッとした。
もしかして......? 私自身は、江の島に上陸するのはこれが初めてじゃなかろうか。本当に!? としばし自問自答。いや、たぶん間違いない。
私はもともと「島好き」を自認してきた。娘が生まれてからも、瀬戸内海の島々や沖縄の離島など、積極的に島に上陸してきた。そんな私が、自宅から最も手軽に行ける島をスルーしてきたなんて、おいおい、それでも島好きと言えるのか、と突っ込みたくなる。
そこで、初めて見る江の島をよくよく観察してみた。
ふいにフランス北部にある世界遺産の島、モン・サン・ミシェルとよく似ていることに気がついた。どちらも陸繋島で、島全体が山状に隆起し、その頂きには聖地がある(江の島は神社で、モン・サン・ミシェルは教会)。さらに観光客が猛烈に多く、お土産屋さんがひしめいている、というのもそっくりだった。
これは世紀の発見かもしれないと思ったが、念のためググッてみたところ、「江の島は日本のモン・サン・ミシェル!」というような記事がいくつもヒットし、高揚感はプシューっと音をたてるようにしぼんだ。
14時00分 最初の一匹
「すみませーん、私たち釣りのど素人なので、いろいろ教えてください」
井上つりえさ店に入ると、店主の豊村玲子さんが「いいですよー」と優しく対応してくれる。ここは、磯釣り大会も主催しているやる気溢れる釣り餌屋さんで、手ぶらで釣りができる釣竿セットのレンタルもしているのだ。
「じゃあ、サビキでいいですかね」
といきなり専門的な質問をされるが、いいも悪いも「はい」と頷くしかない。そして、針の付け方から撒き餌の撒き方、釣った魚の扱い方まで、釣りの全行程をくまなく伝授して頂くと、私たちは灯台が見える堤防を目指した。
「他の人が釣れているのに自分が釣れないときは、何かがおかしいと思ってください」という豊村さんの教えを胸に。
*
堤防では、すでに何十人もの釣り人が無言で糸を垂れている。ずらっと並ぶその姿、その緊張感は、間違いなく勝負の世界である。
「じゃあ、60分限定トライアルね!」と私はI君に声をかけた。前回の山形の経験から、どうせ釣れやしないだろう、長いこと待ちたくない、というのが私の本音だった。
「わかった!」
I君は軽快に答えると、見るからに試行錯誤しながらなんとか釣竿に針をセット。
「パパ、がんばれー」とナナオも惜しげない声援をなげる。
「おお、がんばるぞー! 見ててねー」
そして撒き餌をドボンドボンと豪快に投入し、糸を垂らして3分。
「きたー!!」という大声が堤防に響き渡った。
えっ、どこの誰!?と思ったら、なんとI君である。マジか!
半信半疑で釣竿の先をみると、確かに10センチほどの小魚がかかっている。いまが旬のコサバのようだ。
「パパ、すごーい! すごーい!」
ここにきて、ナナオのボルテージもぐおーんと上昇。
I君は糸を盛大にからませながら、不器用な手つきで魚を針から外し、「それ!」とバケツに投げ入れた。気の毒な魚はパニック状態に陥り、バシャバシャとバケツのなかで跳ねまわる。それを見たナナオは、さらに興奮状態に。
「おさかなさーん、こうふんしないでー! おちつつきなさーいいいいい!」と叫びはじめた。
私は私で、「すごいですねえ、本当に釣れるんですね!」と周囲の釣り人に同意と賞賛を求めたが、「ええ、そうですね」と淡々と返されるのみ。どうやら「釣れる」というのは、ここではごく当たり前のことのようだった。
そうこうしている間に、「よっしゃー! また釣れた!」というI君の声が響き渡り、もはや大漁旗をあげたくなる展開に突入。バケツのなかの魚が跳ねまわると同時に、娘の興奮も絶頂に向かい、「おーさーかーなーさーん、おちつきなさーい!!!」という絶叫が私の耳をつんざいた(普段は自分が保育園の先生に言われているのだろう)。
最終的にはコサバ9匹を釣り上げ、60分間の勝負を終えた。