1950(昭和25)年から駅前で漢方を扱う薬局を営む「杉本薬局」。こちらの2代目をつとめたご兄妹にもご記憶をうかがった(杉本薬局の場所は前掲の地図を参照)。
家主の名前や店名も書き込まれた昔の駅前地図を見ながら、ご兄妹はどこになにがあったか、次々と教えてくれる。
「ここは同級生の家で、庭にプールがあった」「この家ではでっかいシェパードを飼っていてね」「ここにローラースケート場があったの」といった調子である。
やりとりを伺っているとじつにおもしろい。
妹さん「ここらへんにも、ひとつ洋館があったと思うのね」
お兄さん「○○さんはお医者さんだった」
妹さん「じゃあ、このうちが洋館だった可能性が高いわね」
なるほど、1人より2人(そしておそらく2人より3人、以下略...)の方が記憶はより引き出されていくようだ。お互いの持っているピースを持ち寄ると、全体の「絵」がはっきりしてくる。
妹さんによると、おうち(兼薬局)の前の歩道はやはり煉瓦敷きで、近くに赤い屋根の洋館があったそうだ。お母様が撮影されたという貴重な写真の数々も見せていただくことができた。
「周りには洋館をはじめとして特徴のある家が多くて、その意味でも美しいというようにイメージを持っていましたね。何が目立つかというと、それぞれの屋敷と植物――緑が多くてゆったりとした雰囲気ですよね。前には庭、奥には家というかたちの建て方をしていた家が圧倒的に多かったです」
子供時代を思い起こしてこう語ってくれた。
渡辺六郎氏が「建築物規定」を導入して実現しようとした美観が、ここでもある少女に伝わって「美しさ」として記憶されていることに私は心打たれた。
協和銀行大船支店開店時の宣伝パンフレットから、杉本薬局所蔵、提供
赤い丸がついているのが銀行の支店の位置。
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上の写真は、協和銀行(現りそな銀行)大船支店開店時の宣伝パンフレットからのもの。開店は1965(昭和40)年7月7日なので、撮影は当年か前年だろうか。本稿で扱っている時代より下るが、それでもまだあちらこちらに緑が残されている様子が分かる。
ご兄妹が1950(昭和25)年に越してきたとき、お兄さんはまだ幼稚園に上がる前だった。子供時代には近所にあった松林で、大人たちが空気銃で鳥を撃つのを見ていたという。
「当時はまだ規制なんかなかったんだね。周りには畑や田んぼもたくさん残っていて、遠くまで見通せた」と当時を振り返る。
駅の方には戦後すぐの時代ならではの「闇市」もあったというから興味深い。
薬局の近くには松竹の大女優・田中絹代さんが休んだり泊まったりするおうちがあったそうだ(前掲地図参照)。
「2階の窓から手を振ってくれたりしましたよ」
とお兄さんは教えてくれた。
杉本さんのところでは薬局ならではのエピソードを伺うことができた。映画のなかで使う薬を撮影のために松竹に貸し出していたというのだ。しかもお父様(杉本薬局・初代)が時代考証をちゃんとして、設定にそぐうような薬を調べて、用意したそうだ。
「撮影でね、自殺のシーンで使う白い錠剤をと言われて、ビオフェルミンのような飲んでも身体に害のないものを提供したりということもあったと聞いています」と妹さん。
こちらには小津安二郎監督や俳優・笠智衆さんも通われたとのことだった。
特に小津監督は無類の「薬好き」だったそうで、自前の「百味箪笥」のようなものを持っていて、同様に研究熱心だったお父様(杉本薬局・初代)になにかと相談しては一緒に薬の理解を深めていたらしい。
小津監督の日記にも、杉本薬局の名が登場しており、当時、監督が行きつけにしていた様子がうかがえる。
「晴 オープン 露地をとる/大変草臥れて 帰宅 入浴 晩酌/杉本薬局によってビタヘルスを購い 大船駅から/車で帰る ときくる」
(1959(昭和34)年3月27日金曜日の日記、『全日記 小津安二郎』田中真澄 編纂より。※読みやすいよう、適宜、誤記・旧仮名遣いを筆者があらためた)
車が当たり前になる以前は、駅と撮影所の行き来は俳優でも監督でも歩いて通っていたので、ふつうに界隈で買い物したり食事をしたりしていたとのこと。俳優が生活をする街というのはなにやらハリウッドっぽいと言えなくもない。
ご兄妹が大きくなっていく時期は、ちょうど大船で都市化が進んでいく時代でもあった。畑や田んぼ、残されていた湿地なども市街地化していった。街には映画人たちが通うしゃれた店も立つようになった。他の街ではちょっとなさそうな、特別な注文を受けることもお店の人たちにはしばしばあった。子供から大人までエキストラにかり出されることもしょっちゅうだった。大船の人々は自分たちの街を撮影所がある特別な街として、「誇り」のようなものを感じるようになったと思う。女優さんに俳優さん、監督や脚本家など文化の最先端にいる映画人たち――。
大船家具の関さんは
「(作曲家)万城目正さんの乗っていらした車が、大きな外国の車でね、店の前をふわ~ン、ふわ~ンと優雅に走っていられました」
と当時の驚きそのままに教えてくれた。
ふだんの暮らしのなかに突然、非日常の世界が紛れ込んでくるような、それは「美しさ」のなかでも――田園都市とは異なり――きらびやかな美しさだったろう。あるいは「粋」の味が加わったとも言えるだろうか。
そんな松竹の「美」を象徴するかのようにこれでもかと咲き誇る1200本の桜は、映画人たちにも、街の人たちにも、強く記憶された。
女優の岸惠子さんは、後年インタビューに答えて、
「やっぱり私、松竹大船っていうと、いろんな撮影所へ後々行きましたけど、桜並木のある木造洋館建ての一番モダンでなんかすごくノスタルジー感じるんですね」
と語っている。
(『人は大切なことも忘れてしまうから―松竹大船撮影所物語』山田太一、他)
杉本薬局2代目の妹さんも、
「(砂押)川沿いにずっと咲いた桜は、満開になったときは本当にきれいでした。川の上へわたるような枝ぶりでね」
と当時を振り返ってくれた。
1936(昭和11)年に苗木で贈られた1200本の桜は、年月を経て大船を桜の園にした。松竹ではたびたび桜まつりも開催されたという。
しかしながら、映画産業がテレビの波に押されて次第にいきおいを失っていくなか松竹大船撮影所は、用地を少しずつ売却。撮影所内にあった何百本という桜の樹も、運命をともにし、切られていってしまう。