ここまでくるのに長くかかってしまった。次に<ピンク>の話に移ろう。
先に少し触れたが、1928(昭和3)年に田園都市株式会社が事業から手を引き、大船には開発途中の土地が残された。しばらくは神奈川県畜産連合会に貸し出され草競馬場として活用されていたという。そこに1936(昭和11)年、映画産業の松竹キネマが東京の蒲田からやってきて、敷地3万坪という広大な撮影所を開設することになった。
冒頭で、関さんが子供ながらに
「松竹から見て北はピンク、西は黄色にしてあるのだな」
と感心した、という話を載せた。
この桜は、松竹大船撮影所の落成記念に、東京の新聞社が10社共同で苗木を贈ったものだった。
2018年2月、筆者撮影
イトーヨーカドー近くの砂押川河畔にある石碑。「昭和11年4月18日」という日付が見える。裏に回ると桜を共同で贈った新聞社の名前が10社、ずらりと刻まれている。
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なんとその本数1200本というから、当時の松竹の勢いが伝わってくるというものである。撮影所の所内と砂押川沿いに駅の方までずっと植えられた。
「やっぱり映画をつくろうという人たちだからですかね、折々の場所が『絵になる』というか、すぐにも映画のワンシーンに使えそうでした」と関さん。
松竹は「田園都市」とはまた異なる「美しさ」をもたらしたと言える。じつは松竹は、映画の撮影所のみならず、1934(昭和9)年に、大船で都市計画を行う「松竹映画都市株式会社」を設立している(第2次世界大戦の影響で1941年解散)。「映画都市」というのは、渡辺六郎が思い描いた郊外に広がる優雅な田園都市とはまた異なる。松竹はここ大船を「東洋のハリウッド」たらしめんと構想したのだ。
松竹映画都市株式会社は新聞各紙に広告を打つなどしており、もちろん映画人のみを対象に土地を分譲したわけではない。それでも街にはハリウッドのようにとまでいったら言いすぎかも知れないが、俳優さん、女優さんをはじめ作曲家やほかの裏方さんたちも多く住むようになった。撮影所の近くには松竹の寮もあった。西口の方には小津映画で有名な笠智衆さんも住んでいたという。
国土地理院のデータをもとに筆者が作成。
昭和30年代に駅界隈に居を構え、あるいは別邸として家を持っていた映画関係者たちの名をだいたいの住まいの位置に記した。
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