話を「銀杏並木」に戻す。
田園都市計画は中途で途絶えたが、銀杏並木の方は、洋館の建ち並ぶ緑豊かな田園都市風景とともに残された。
「さつき本通り東端 夕涼み」(昭和5年頃)、鎌倉市中央図書館提供
まだ若い銀杏並木。「とんがり屋根」の洋館が左手に見える。
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「さつき本通り」(昭和10年代)、鎌倉市中央図書館提供
右手の建物の手前に道があり、この道は右方向が離れ山に通じている。銀杏は少し太くなっている。
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当時の様子を伝える写真を見ると、中途で挫折したとはいえ、それでも見事な田園都市風景が広がる様子が見て取れる。今でも街の基盤として、このときの碁盤の目状の区画は残っている。下の大船駅東方を映した写真は1935(昭和10)年のものなので、植樹して12年ほど経過したところ。まだ若い銀杏並木がさつき本通り(現・松竹通り)に葉を茂らせているさまが見える。
「大船駅の東方に田園都市を望む」(昭和10年)、鎌倉市中央図書館提供
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関さんからは、嵐の翌日に見た銀杏並木のお話をうかがうことができた。
列島に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風(1959(昭和34)年9月)のときのことだという。(ちなみに、幸いにも水は出ずにすんだとのこと)
「大事をとって近くの旅館に避難したんです。階数がありましたから。雨も上がった翌朝に窓から通りを見下ろすと、洗い清められたような道路に銀杏の葉だけが落ちていてね。陽の光にかがやく銀杏の並木道を、郵便屋さんの自転車が走り抜けていった。とてもきれいでした」
まるで写真家が切り取ったかのような場面である。少女の目撃した、時間の止まったような美しい光景――。
その後、銀杏はどうなったのだろうか。
田園都市株式会社が去った後しばらくして、1936(昭和11)年に松竹大船撮影所が開所する。一気に間を端折って申し訳ないが、1990年代に入って撮影所の敷地の一角に「鎌倉シネマワールド(1995-98年)」という映画のテーマパークが造られることとなった。その工事の時に、銀杏並木は、なんの予告もなくいっせいに伐採され、現在ある木が植えられたそうだ。
2018年2月、筆者撮影
現在の松竹通り。銀杏の代わりに植えられたクロガネモチ。この樹々には罪はないが、切られた銀杏が惜しまれる。しかし、どうして銀杏ではだめだったのだろう。なぜ違う樹に植え替えることになったのだろう。いずれ調べてみたい。
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ほとんど1日ですべて切ってしまったそうだ。美しい銀杏並木の風景が大好きだった関さんは驚いた。
「もう、卒倒しそうでしたよ」関さんは言う。
銀杏は現在では大船家具の前に1本、テルミ美容室の前に2本、ほか松竹通りに数本を残すのみ。
2016年、村川邦衛氏撮影、提供
旧・さつき本通り、現・松竹通りにあった銀杏並木のうち、現在にも残る樹。大船家具の前の1本と、並びのテルミ美容室の前の2本。
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この残った銀杏を誰かが切ろうと言い出したことがあったそうだ。それを関さんは止めた。
「『とんでもない、これとテルミさんの前のが数少ない残っている樹なんだから、ぜったい切っちゃだめだ』って。もう100年近いわけでしょう、だから『もったいない』って言って」
そう、1923(大正12)年の植樹なので、90年を超えて大船の街を見守っている木々であり、また田園都市計画という歴史的事業のわずかな名残である。
2018年2月筆者撮影
松竹通りを鎌倉女子大の方へ進んでいったところにある銀杏。
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少し通りを進んだあたり(西友の近くや、第一生命のビルの前あたり)にも両岸に2,3本ずつ銀杏の樹がある。これらがもともとあったものなのかどうか、だとしたら、どのようないきさつでまばらな残り方をしているのかについては、今回は判明しなかった。ここにも関さんのような守人がいたのだろうか。引き続き、調べていきたい。
関さんは言う。
「私はこの銀杏を残したい。もうそれだけはお伝えしたいです」