大船田園都市は「新鎌倉」と銘打って売り出された。このときの分譲の宣伝用パンフレットにおいても「わが社の大目的」として、「美しく、気持ちのよい街を創り出そうと考えています」という旨が第一に掲げられており、美観が重視されていることがよく分かる。
じっさいに美しい街を創り出すために、大船田園都市では、当時としてはいちはやく、世界初の田園都市であるイギリスのレッチワースにならって「建築物規定」を取り入れた。ここからも美しい街並みを作り出そうという確固とした意思が感じられる。
簡単にまとめると、以下のような規定があった。
☆外観はすべて洋風にすること
☆建物の面積は、敷地の1/3以下に抑えること
☆建物は、道路からはなして建てること
☆生垣は高くしない。4尺(約120センチ)まで。
☆板塀などで家が見えなくならないように。前には芝生をもうけ、いつもしゃれた洋風の家が見えるようにすること。
こうした規定にのっとり、本家レッチワースに劣らぬ美しい街が目指された。広く幅をとられた歩道に、サツキと銀杏の街路樹、しゃれた洋風の街灯も立てられたそうだ。
「さつき本通り断面図」、鎌倉市中央図書館提供
車道、街路樹、歩道。それから敷地に入って、芝生、低い生垣、前庭、建物。前掲のレッチワースの住宅街の写真と比べても遜色がないと思える。なお、図中にある数字の単位は「尺」で、1尺=約30センチ。
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土地の人のなかには、建物がすべて洋風というのは、進歩的すぎて受け容れがたいという向きもあったらしい。それでも、こうした都市計画につきものの地元とのトラブルが大船にはなく、むしろ協力的であったということだ。
大船の田園都市計画を研究した建築史家・藤谷陽悦氏は
「地元の地主は非常に良心的であり(...)新しい街を作ることに対して(...)みな好意的で、積極的に新しい文化都市を造ろうという機運があったことが分かります」
と述べている。
先祖伝来の土地を東京から来た事業者にゆずるということは、農業をなりわいとする地域の人にとって一大事だっただろうことは想像に難くない。地主さんたちの気質もあったろうし、きちんと協議を重ねたということもあったろう。だが、なにより――これは私の想像にすぎないのだが――事業主・渡辺六郎氏の理想に燃えるさまに共鳴し、ひと肌脱ごう、となったのではないだろうか。そんな物語が想像されて仕方ない。
大船の田園都市計画は、不幸なことに中途で頓挫した。1923(大正12)年の関東大震災は大船の街にも大きな被害をもたらした。震災後の補修に出費がかさみ、立ち上がりかけた新しい事業は資金繰りが苦しくなった。だめ押しのように1927(昭和2)年に起きた金融恐慌によって、経営母体である渡辺銀行が倒産。これにより、大船田園都市株式会社も事業をたたむこととなった。
以降は、街の美観を作り上げるための「規定」が及ばなくなったため、日本家屋や、日本家屋に洋館を「外付け」したような折衷のものなどが洋館と混在していくこととなった。関さんが幼年期を送った昭和30年代の街並みはこうしたものだったという。時代を経て「美しい田園都市」から距離ができたことは確かだ。それでも、田園都市計画が原野だった大船に一から築いた街並みの基礎は、車道、歩道、区画をはじめとして、昭和を経て現在に至るまで生きて残っているわけで、渡辺六郎はいわば近代・大船の「父」であったと言えるかも知れない。