まずは<黄色>――銀杏並木から話を始めたい。
「うち(大船家具)の前に残っているこの銀杏ね、ほんとはこの通りの両側に等間隔でずーっと植えられていたんです。大きな樹の葉が、秋にはすべて金色になって。本当にきれいだと思いました」と関さんは語る。
松竹通りの銀杏並木。緑豊かな様子が伝わってくる。(昭和30年代 関道雄氏撮影、大船家具所蔵)
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松竹通りには、駅前からずっと(現在では鎌倉女子大学がある)松竹大船撮影所の正門まで銀杏並木が続いていた。これは1923(大正12)年に植樹されたもの。大船田園都市計画にともなって街路樹として植えられた。
大船に縁をお持ちの方であればたいていご存知かとも思うが、ここで大船にかつてあった「田園都市計画」について触れておきたい。NHKの朝の連続テレビ小説にでもちょうど良いような話なので、興味のある方は図書館などで資料に当たってみてください(ぜひドラマ化してほしい!漫画でも読んでみたい!)。
歴史の細かい話が苦手な方には申し訳ないが、しばらく時代をさかのぼって話をさせてもらう。
時は、大正の終わりから昭和初めの頃。当時、都心部への人口の流入が続き、住宅不足が大きな社会問題となっていた。これは官民挙げて取り組む急務であった。そのころ大船は、まだ商家もほとんどない農村地帯で、小さな松島の点在する湿地だったという。
大船駅前にひろがる10万坪あまりの土地に「田園都市」を構想したのは、すでに東京は日暮里でも3万坪規模の都市計画を成功させていた東京渡辺銀行であった。この渡辺銀行は、昭和史には必ず登場する当時の機関銀行のひとつである。1921(大正11)年、「大船田園都市株式会社」設立――ここ大船に欧米に範を取った先進的な街づくりが構想されることとなった。
「新鎌倉」平面図、鎌倉市中央図書館提供
駅前に商業地帯、中央に丘とロータリー(ラウンドアバウト)、同心円状に広がる区画、広い公園、街路樹も書き込まれている。
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「新鎌倉」計画案 比較図、鎌倉市中央図書館内 近現代資料室 作成、鎌倉市中央図書館提供
田園都市計画が構想された地区を1994(平成6)年の地図に重ねたもの。
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この「計画」は、同時期にやはり田園都市計画が実施された(現)田園調布に負けず劣らず、理想高く、規模も大きなものだった。上下水道をはじめ病院に至るまでのインフラ整備はもちろん、公園に、散策をうながす道作り、テニスコート、劇場、それに渡辺家所蔵の美術品を一般公開する美術館など、文化的にも充実した生活が構想された。
街並みには何より美しさが求められた。建物はすべて洋風。最小で108坪、最大180坪というから一区画の面積もたっぷりとしたものだった。家庭菜園もできる広い庭に、低い垣根。メイン通りには歩道も広く取られ、煉瓦が敷きつめられた。
「大船では歩道に本物の煉瓦があったんですよ。道も広々としていて、家は緑に囲まれた広い敷地のなかにゆったりと建っていた。だから他の土地を日陰にしないんです。歩道にもお日様がよく当たって、どこを歩いても暖かかったです」
関さんは感覚をしっかりと記憶している。
そして街路樹として植えられたのが銀杏とサツキであった。のちに「松竹通り」と名前を変えるこの通りは、当初「さつき本通り」と名づけられていたそうだ。なお、砂押川沿いの道路は散策路として構想され、萩や川柳が植えられたと記録にはある。
「新鎌倉さつき本道。夕日ヶ丘ヨリ停車場方面ヲ望ム」、1923(大正12)年、鎌倉市中央図書館提供)
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「新鎌倉さつき本道ノ歩道舗装実況」、1923(大正12)年、鎌倉市中央図書館提供
1923(大正12)年に、現在の松竹通り、元さつき本通りに植樹されたばかりの銀杏とサツキ。歩道は煉瓦敷き。写真左手が宅地、右手が車道である。
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